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京町家友の会


新たな春へ

新たな春へ
小林 亜里(ギャラリーテラ、京町家友の会会員)

 テラの建物と出会ったのは1998年の7月だった。
 その日、私は寺町通を丸太町通から御池通に向けて歩いていた。そこは文房四宝の店や骨董品店が点在する通りで、梶井基次郎の短編「檸檬」にも登場する、京都の歴史と文化とモダンの残り香が漂う私のお気に入りの散歩道だった。

 ぶらぶらと通りを下がってきた私は、ふと一軒の古い家に目が止まった。表のカーテンは閉まったままで、家に塗られたグレーのペンキも古ぼけていた。けれども見た瞬間に、「この家が寺町通で一番すてきだな」と一目で好きになった。これまで何度も前を通っていたはずなのに、なぜかこの日、この家が私の前にクローズアップされたのだ。家を印象づけているのは2階にある二つの窓だった。左右に配置された窓は、まるでこの家の「目」のように思えた。家は目をくりくりさせて、「やあ!」と私に向かって言った。

 それから、時を空けずに何度かこの家に会いにきた。そして家が主を失ったらしいことを知り、大家さんを捜して直接会いに行った。当時は町家も今ほどブームではなく、空き家になった家が壊されてしまうのではないかと心配でたまらなくなったのだ。大家さんに素直に家への気持ちを話し、荷物が片付くのを待って中を見せてもらった。

 家は昭和初期に建てられたそうで、案内してくれた不動産屋さんは「古いですよ」と気の毒そうに言われた。が、2階に上がって私は目を見張った。写場に使われていたという2階の部屋は20畳近くあり、古い檜の床が鈍く黒光りしていた。壁の漆喰は黄ばみ、天井は抜けかけていて空が見えるくらいのところもあったが、古いダンスホールのような空間は、かつてここに集い着飾って写真を撮った人々の姿を、フラッシュバックのように私にかいま見せてくれた。

 そして、部屋の正面に、いつも外から見ていたあの目のような二つの窓があった。その目は「とうとう来たね!」とにっと笑いかけた。その日、私はこの家を借りることを決めた。

 1999年1月、ここでテラを開店した。手探りのスタートだったが、それまでの自分の仕事や生活文化への関心、水上勉先生から学んだ竹の紙のことなどが、この町家に一気に結集し、竹の紙の専門店とギャラリーという形となった。そして10年が過ぎた。自転車操業とはよく言ったもので、がむしゃらに自転車で全力疾走してきたような10年間だった。多くの催しが行われ、多くの人との出会いがあった。

 日々に追われる生活だったが、私にはいつかやりたいと思い続けた企画があった。それはこの家の歴史をたどる企画だった。この家を建てた銀行家兼写真家であった先代の大家さんのこと、その大家さんが見込んでここで写真館を営んでいた若い写真家のこと、そして、戦争で亡くなられた写真家の未亡人と戦後ここで暮らしていたそのご家族のこと。ここにゆかりのあった人々をたどり、話を聞き、彼らとここで撮られた写真を集めた写真展をしたい。その思いは、2009年6月、テラ10周年記念の年、楽町楽家の催しで「家の記憶」展として実現した。

 この企画を終え、10周年のいくつかの企画もやり終えたとき、なんだか急に疲れを覚えた。自分はここでやるべきことを終えたのだという思いが押し寄せてきて、ふと気がついた。私は長い間、自分がこの家を気に入りここを選んだのだと思ってきた。けれども、じつは私は家に呼ばれてここにやってきただけだったのかもしれない。この家には伝えたいこと、やってほしいことがあり、私は曲がりなりにもそれをなし終えた。家はほっとしたかな?これでよかった?最初に会った時より気持ちのいい家にしたよね?

 そして思った。「そうだ、そろそろ自宅に戻ろう」と。

 我が家は西陣の一角にあるやはり古い町家である。夫もここで生まれ育ったし、今年90歳になる夫の母もここで生まれ育った。寺町通のような華やかさはないが、家内工業の機織りの音と托鉢の読経の声が響く働く街だ。そして、紙を扱うものにとっては意味深い場所でもある。平安京の昔、ここは大内裏の中の図書寮だったと、何年か前に埋蔵文化財の発掘調査で教えられた。図書寮とは平安京で古文書と造紙を司ってきた場所だ。文章の執筆、編集、竹紙の制作、販売にたずさわってきた私が仕事の拠点とするには、縁ある場所ではないか。ここでゆっくり竹の紙の専門店を続けていこう。通りすがりのお客様は減るかもしれないけれど、来てくれた人とはじっくりおつきあいができる。暮らしに寄り添うことで、より見えてくる世界もあるのではないか。

 さらに新たな出会いにも恵まれた。奥嵯峨の清滝に小さな古民家を得たのだ。テラの建物と離れることを決め、淋しい思いで歩いていた私の背に、「今度は私の番!」とピョンと家が乗ってきた、そんな出会いだった。これからこの家に少し手を入れて、四季折々の自然とともに楽しめるギャラリー、催し、憩いの場にしていきたいと思う。今は京町家のネットワークで出会った方々に改築でお世話になっている。

 今春、西陣と清滝でテラの第2ステージが始まりつつある。

(2010.3.1)
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