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京町家友の会


私の賀茂祭  堀内邦保

葵の葉 京都の三大祭の一つとして初夏を彩る賀茂祭(かもさい)、通称・葵祭は賀茂神社の祭礼であります。
 幕末の頃までは旧暦四月の「二の酉の日」の祭でした。現在は五月十五日に拳行されます。祭の起源は非常に古く、奈良時代まで遡り、祭の様子は「続日本記」や「山城国風土記」「源氏物語」にも記されています。
 祭に用いられる「葵」はアオイ科のうちのフタバアオイであり、賀茂の神を迎えるために、欠かせない植物であります。専門的、学術的な事はまだまだ若輩の身にて控えまして、自身が関係する事をお話いたします。
 当家の賀茂県主(かもあがたぬし)一族が代々ご奉仕してきました賀茂祭は五月一日の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)「通称・上賀茂神社」の競馬会(けいばえ)の足汰え(あしぞろえ)から始まり、五月半ばの各流派家元の奉納儀式まで祭祀は続きます。
 葵祭と聞くと、十五日の行列の路頭の儀(ろとうのぎ)のみと思っておられる方も多く見受けられますが、約2週間ほどの祭礼があります。
 二月の紀元祭の後に、その年のご奉仕諸役の人選や、乗り尻(のりじり)をする社家の子等の乗馬練習が始まります。
 五月は月の半分以上が賀茂祭関連の祭事で、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、通称・下鴨神社で、装束に身をまとい、奏楽いたします。
 私の父の幼少時は戦時中ということもあり、賀茂祭に奉仕した話はあまり耳にしませんでしたが、祖父からは賀茂祭の「乗り尻」は賀茂県主一族の中の保家(やすけ)の長が代々受け継がれていると聞かされてはいました。
 私が中学生の頃には神職から乗り尻の話を繁盛に勧められましたが、乗馬が嫌で神社では写真撮影のお手伝いをしていました。学生を終える頃に縁があって雅楽の笙を習い始め、現在は賀茂御祖神社の宮司に付いています。
 双方とも多忙な故、お稽古より祭事の本番ばかりですが、乗馬を嫌っていました私ですが、雅楽を続けていく内に賀茂祭の道楽(みちがく)の伶人(れいじん)に選ばれ、翌年から陪従(べいじゅ)の辞令をいただきました。
 十五日の路頭の儀の行列は、警護列、幣物列(へいもつれつ)、走馬関連列、勅使列(ちょくしれつ)「通称・本列」、女人列(にょにんれつ)「通称・齋王列」の五列に分けられています。
 十五日は早朝六時半頃に京都御所の新御車寄(しんみくるまよせ)に入り、精進潔斎した身で武官束帯を身にまといます。役所(やくどころ)を簡単に申しますと、陪従は勅使の警護と賀茂神社に着いてからの社頭の儀(しゃとうのぎ)の歌、演奏を致します。刀を付けて、冠が巻嬰(まきえい)になっており、顔の横に追っ掛けといわれる飾りを付けます。これは戦い時に動きやすくし、弓を射る時に羽が目に入らぬように工夫したものらしいです。
 朝九時頃に拍子木の合図で紫宸殿横の広場に列立をしてから乗馬するわけですが、深夜に遠方から搬送されてきた馬の嘶き(いななき)を聞きながらの順番を待つ短時間の緊張が、とても長く感じられます。どうか、「おとなしい馬で、暴れませんように!」と神に願います。
 行列の一番先頭には息子が乗り尻でいますが、今年は昨年暮れに私の家内を看取りましたので母親の十三ヶ月の忌服期間に付き、今年は参列いたしません。
 十時に行列が動き出し、約一時間で賀茂御祖神社に着きます。糺の森(ただすのもり)に入って行く時が、短い時間であっても乗馬の疲れが癒える時です。二の鳥居の手前で下馬して、社頭の儀(しゃとうのぎ)を努めます。和琴を持ちながら道楽で参進し、楼門の中に入ると舞人(まいびと)と日本古来の歌である「東遊び」(あずまあそび)を行います。賀茂祭の一番盛り上がる部分です。
 新緑の中の深閑とした異次元ともいえる時間が、ゆっくりゆっくりと過ぎます。聞こえてくるのは森のざわめきと馬の嘶き、陪従の歌だけ。「また一年が来たなぁっ〜」と、思います。
 行列が神社に着くと、大勢は昼食で休憩されますが、私どもは着いた時点から違う神事が続きます。ほとんど休息をとらないままに、二時頃に賀茂御祖神社から乗馬で出発します。三時頃に御園橋を渡り賀茂別雷神社に着くと、一の鳥居の前で下馬します。賀茂御祖神社での祭事と同じように社頭の儀を行い、最後に乗り尻の子等が神山(こうやま)の方まで駈ける走馬の儀(そうめのぎ)が終わると、その日の祭事が終了し、京都御所に帰り装束を解きます。
 照明の無い御所の真っ暗な中で一日の終わりを実感して帰宅いたします。このような大層な祭事を毎年健康で参加出来る事を幸せに感じます。
(2007.5.1)
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