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京町家友の会



顔見世 山田 公子

 京都の師走の風物詩といえば、まず思い浮かぶのが「顔見世」。11月になると、そこここで今年の演目やら役者さんやらの話題が出てくる。11月の末には、おなじみの勘亭流で書かれた「まねき」が揚がる様子がテレビのニュースで流れ、翌朝の新聞でも必ず大きな見出しで見ることとなる。その後、祇園界隈に出かけるときには「ちょっとだけ『まねき』見て行こか」と、どんぐり(団栗橋)から川端(川端通)を上って、わざわざ南座の前を通ってみる。普段は南座の前で上を見上げることはないが、このときばかりは正面に立って、役者さんの誰の名前がどこにあるのかをひとつひとつ見て、すでに映像や写真で見た景色をもう一度確認してみたくなる。
 そして12月に入ると、「今年の顔見世はいつ行かはんの?」「顔見世の切符はもうとらはったん?」から始まって、「今年は昼より夜の方がええらしいどっせ」とか、「今年は○○さんが、よろしおすなあ」とかと聞かされる。これは、「どこ行かはんの?」「ちょっとそこまで」「ほな、気いつけて」「おおきに」という、ご近所同士の挨拶と同じように、京都の師走の挨拶として交わされているようにも思える。
 初めて顔見世に行ったのは20歳の頃で、その当時の私にとっては一張羅の白地小紋の着物を着て出かけた。着物の上には朱赤の道行にカシミアのショール。着ていたものは鮮明に覚えている。まるで社交界デビューをするような気分と一歩大人の世界へ足を踏み出したような心持ちで座席についたと思う。京都では、顔見世には毎年新しい着物を新調して、それを着て出かけるということになっているらしいが、花街の人でもない限り、普通の者には今のご時世ではなかなかそこまでは出来ない。とはいえ、顔見世に行くのには、やはりどんなに近所に住んでいる者であっても「よそいき」を着ていかないと、そこにいるすべての人に失礼にあたると思えるぐらい、京都の人にとって顔見世は師走の「ハレ」の場であることは間違いない。
 東京に住んでいた頃は、わりと頻繁に歌舞伎座や新国立劇場へ歌舞伎を見に出かけたので、だんだんと座席も後ろへ移し、隣にかけ声をかけるおじさんたちがいるような席で舞台を楽しむようになっていた。そうなると服装もだんだんと気取ったものを着ていかなくなってしまった。
 京都へ戻った年の暮れ、久々に顔見世に出かけたら、綺麗どころの御姐さん方に挨拶されている粋な和服姿の男性を見つけた。見つけたというよりあまりに格好良くて目立っていた。祇園にお住まいの多少面識がある方だった。彼は普段から着物か作務衣を着ているところしか見たことがないくらいだから、それこそ一張羅の和服姿が本当に格好良かった。彼なら当然のごとく毎年顔見世に来て、それこそ役者さんから演目のことまで立て板に水のごとくウンチクを語れるに違いないと思い込んで声をかけた。すると、その方は何とも恥ずかしげな照れた様子で「生まれて初めて顔見世に来ましてん」とおっしゃった。おそらく60歳代も半ばくらいかと思う。
 京都の人が皆、毎年暮れには南座に顔見世を見に行くというのは大きな間違いだと、このとき改めて痛感した。「今年の顔見世はいつ行かはんの?」「顔見世の切符はもうとらはったん?」という問いかけは、やっぱりただの季節の挨拶と聞き流してよいのかもしれないと思えるようになってきた。しかし、それでもやはり11月も末になると、あの「まねき」を見て何やらウズウズとして、「顔見世はいつ行かはんの?」「今年はお昼か夜か、どっちがええにゃろ?」と友人たちに問いかけている自分がいるに違いない。
(京町家友の会事務局)
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