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京町家友の会




おひなさま 山田 公子


私がものごころついた頃、我が家で飾られていた「おひなさん」は母のもので、いかにも京都らしく、寝殿の内部におひなさまとお内裏さまが座していらして、三人官女もまたその寝殿の一部に位置するように飾られていた。五人囃子ともなると、寝殿からは外されて下段に飾る。右大臣・左大臣、右近の桜、左近の橘、蒔絵のお道具類など、ひととおりのお飾りは揃っていた。その頃のまだ小さかった私には、タンスの上くらいの高い所の、薄暗い部屋のそのまた薄暗い寝殿内のおひなさまとお内裏さまのお顔はよく見えていなかった。
 小学一年生の時、同級生のおうちに「おひなまつり」のおよばれをした。そこは四条通に面して入り口があり、ずっと奥まで入っていくと、中は広い立派なおうちで、お茶室があり、お庭もあって、また白壁の蔵もある。おひなさまは寝殿には入っていらっしゃらなかったが立派なもので、和服を召した優しそうな、まるでお内裏様がそのまま年老いたようなお顔のおじいさまがにこやかに私たち子どものお相手をしてくださったことが印象深い。四条通にこんな良いおうちがあるのだと、子どもなりに京都の奥の深さに感動した記憶がはっきりとある。
 高校生になり、今度は北山杉の銘木を扱っていらっしゃる中川の里の、これもまた立派なお宅に「おひなまつり」のおよばれをした。この時は、川端康成の「古都」の舞台にもなった、まさに北山杉の丸太を磨いている作業所やら、東山魁夷の画と同じ景色を間近に見て、まちなかに住む私は、またまた京都の奥の深さに感動していたものだ。そして、高校生ともなると、友人たちは皆、茶道の心得があり、そこでの遊びは簡単なお茶事であった。広い茶室に飾られているのは、大きな七段飾りの立派なおひなさまである。
 これらは、おそらくそれぞれ私の同級生のおひなさまであったに違いない。おひなさまのお顔は、うちのものに比べて大きく、新しく、目元もぱっちり。また毛氈の赤い色も鮮やかで、年数を経たものとは思えない。我が家の母のおひなさまのお顔は本当に小さくて、やや面長で切れ長な目が涼やかであったような気がする。気がするというのは、その後、私が東京で暮らす間に、母はそのおひなさまを道具屋さんに売ってしまっていた。母がそのおひなさまを手放したのは、その前に私が自分のおひなさまが欲しくて、木目込みの小さなおひなさまとお内裏さまを自分で作ったからかもしれないが。どちらにしても、我が家では3月3日の前にお出しして、4月4日にしまっていたように思う。「はよ片付けへんかったらお嫁にいけへんえ」と毎年言われたが、結婚してからも、そう言われるのは、どうしたことか? だが、そのおかげでか、何でもいつまでも片付けないのは良くないのだということだけは身に付いた。
 ちなみにどちらのおよばれも確かに4月3日であった。その当時、旧暦の意味がよくわかっていなくて、旧家だけがそのような習慣があるのかと思っていたが、確かに桃の花は3月3日では、まだ咲いていない。すべて旧暦で考えると理にかなう。このことは、昨年、大極殿さんにお世話になって「京の菓子暦」を取材し、本当によく理解できたことである。
 ところで、私の親友が家を建て替えるとのことで、物置の整理を手伝ったところ、何とも大きくて立派なおひなさまが見つかった。高さ40センチくらいはあろうか。その箱書きから大正時代のものである。何十年と日の目を見なかったようだが、昨年からは新しい家で飾ってもらえるようになった。
 おひなさまは家に伝わるものなのか、個人に帰属するものなのか。どちらにしてもやはり一年に一度はお顔を拝むべく、家族やお友達もいっしょに、できればお母さんの手作りの「ちらしずし」やら季節の貝のごちそうで、なごやかに春の一日を楽しみたい。子どもたちにそうした機会がきちんと与えられているのか、疑問に思うこの頃である。

(京町家友の会事務局)

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