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京町家友の会


「祇園祭」と私 松村 篤之介


 私は、大正15年(1926年)7月21日、京都市中京区室町通三条上ル役行者(えんのぎょうじゃ)町に生まれました。

 昔は、昭和40年(1965年)までは、祇園祭は「前(さき)の祭」と「後(あと)の祭」があり、ご巡行は、それぞれ「前の祭」は今の日程と同じく17日、「後の祭」は一週間遅れの24日でありました。7月21日は、「役行者山」などの「後の祭」の宵々山の前日に当たり、お祭に入って山飾りの最中の真っ昼間、正午に生まれたと聞いています。正しく祇園祭の申し子と云うべき誕生となりました。

 もの心がついた時には、お祭は当然のことのようにあり、従って7月21日は極めて忙しいさなかでもあるので、改めて誕生日のお祝いなんかしてもらったことはありませんでした。お祝いごとが無いことに何かゴトゴト小言をいうと「お祭と一緒にしとき!」と一喝されるのが落ちでした。

 町内には、今と違って子沢山のご家庭が多く、小学校高学年から乳幼児まで20人余りがおったと記憶します。お祭が始まると町会所が開けられ、お道具が蔵から運び出されますが、飾り席が結構広い場所なので、子供達が三々五々集まって来て飛び廻ったこと、山組みが完了すると、木組みの間を上がったり下りたりして、鬼ゴッコもどきの遊びをしたことなどを思い出します。

 夕方になると、2歳年上の兄が浴衣を着せてもらって会所の飾り席に並び、7、8人の町内の子供達と一緒に声を揃えて、役行者さんのお札、お守り、ロウソクを、お参りの人々におすすめする姿がありました。小学校に上がらないことにはそこに座れない悔しさや羨ましさは、今でも昨日のことのように覚えています。


 「厄除けの お守りは 今明晩ばかり 常は出ません
    ご信心のおん方様は 受けてお帰りなされましょう!!」
             (宵山になると「今晩ばかり」となる)

 一種独特の節回しで子供達が唱える飾り席の様子は、最近少なくなりましたが、それは祇園祭の見応えのある風景の一つであったと思います。

 時は移り、金解禁、昭和恐慌の経済大変動が起こり、一方世情は五・一五、二・二六事件と続いて物々しくなり、遂に満洲事変、支那事変と日本は戦争に突入して行きました。それでも昭和一桁代は、明治の文明開化、大正ロマンを引き継いで、祇園祭町衆の周辺にはまだまだ良き時代が続いていたように、子供心にも感じていました。

 何といっても、その頃の子供達の楽しみは「お正月」と「祇園祭」、特に食べ物の魅力は忘れられません。お正月のお雑煮(ぞーに)とお煮染(にしめ)に匹敵するように、お祭の三日間は、お店の人と一緒に戴くお茶碗蒸(ちゃぁむ)し、鰻(まむし)丼、泥鰌(どじょ)鍋は何よりも愉しみでありました。平素食べたことのないこれらをこの時に限って戴く嬉しさは、今日この頃何でもある時代と違って、大変な日替わりグルメでもありました。



 戦後、大学を出ていよいよ実社会に第一歩を印した昭和25年(1950年)、その秋に、ご縁があって現在の中京区六角通烏丸西入骨屋(ほねや)町に移って参りました。明治の終わりに建った表屋造り町家であり、父が白生地問屋の仕事を続けていましたので、店の人と一緒の宿替えとなりました。

 ところで、この骨屋町も祇園祭山鉾の一つ「浄妙山(じょうみょうやま)」のご町内でありました。祇園祭とのご縁が続くことに、嬉しいやら有り難いやら、早速町内の方々の中に入ってお手伝いから始めました。

 「浄妙山」は戦中戦後の荒波にさらされて幾多の苦難がありました。戦災を怖れて町内の幾つかのお宅の蔵に分散お預けしたり、そのうち散逸するものが出てきたり、戦後間もなく事情があって折角所有していた町会所を売却してしまうことが起こったり、従って輪をかけてお道具の毀損紛失が進んで、
それはそれは大わらわの時でした。

 時あたかも戦後復活第一回の祇園祭ご巡行はこの昭和25年7月に行われたのですが、残念ながら「浄妙山」はこれらの事情のため、不出となってしまいました。何とか来年は、参加したいとご町内一丸となって取り組んだおかげで、翌昭和26年のお祭からは見事復活を果たしました。

 その後、幾多の変遷を経て、昭和46年には「浄妙山保存会」が出来上がり、続いて昭和50年(1975年)1月には「財団法人」の認可も戴きました。

 前述の如く、町内町会所がありませんので、お道具総ては、その後京都市が作って呉れました円山公園の「収蔵庫」に納めています。さて、お祭になるとこれらを出してきて、お山の木組みは町内に組むことが出来ますが、ご神体初め大事な懸装品、お道具類をお飾りをする飾り席がありません。転々として色々のお宅にお願いをしてきましたが、ここ数年は私の家をその時期開放して使って頂いております。

 来年からは、現在町内に建設中のマンションのエントランスを利用させて頂いて飾り席を設けることに話し合いを進めております。

 廻りの人が、私を見て「お祭になると元気になる」と言います。自分では、何時も変わりない積もりなのですが、やはりお祭に入ると顔色が違うようです。保存会の理事長としての責任の重さもさることながら、ことほど左様に、お祭は私共を活性化して呉れるようです。

 祇園祭は「神様ごと」であります。至誠な気持ちと敬虔な所作をもってこれらに当たらなければなりません。そして次の時代へ必ずや繋げなければなりません。これが町衆に与えられたお役目であると思っております。

(京町家友の会会長)
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