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京町家友の会


撮影:細野喜由

賀茂祭(かもさい)と騎射(きしゃ) 高林 素樹

 五月、新緑である。京都では葵祭(あおいまつり)の季節。ことしは清水寺奥之院のご本尊ご開帳もあり、ゴールデンウィークの人出は、さぞかし多いことだろう。

 葵祭といえば、おおかたのひとが連想するのは、もっぱら斎王代と、女人列をはじめとする華やかな行粧(ぎょうしょう)ではないだろうか。賀茂祭とか、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)とか、糺(ただす)の森などといっても、「葵祭」ほどにはなじみのない方が多い。
 「祇園祭って7月17日ですよね」と決めつけられたら、おそらくは少し口をはさみたくなる会員がおられると思うが、賀茂祭については私もいささかうるさいほうです。


 京都は、都としての歴史が1200年以上あるが、京都が都になるそのさらに250年前をすでに記録上の起源としている行事、といわれたら皆さんは何をおもいうかべるだろう。それが、賀茂祭(葵祭の正式な呼称)なのである。

 祭事の解説や行粧の薀蓄(うんちく)は他の方におゆずりして、私は、ユーラシア大陸から日本列島をのぞいて、とっくに消えてしまった特殊な技術(!)についてご紹介しようと思う。それは、「騎射」である。
 「それって、やぶさめのことでしょ。どう書くのか忘れたけど」という声が聞こえてきそうだ。じっさいここ10年ほどのうちに、全国あちこちで見る機会もふえてきた流鏑馬(やぶさめ)だが、京都のすごいところは、この大がかりな行事が、ある御神事のための前儀のひとつにすぎない、というところにある。「下鴨神社流鏑馬神事」は、賀茂祭の行粧の無事を祈念する祓えの神事として、諸前儀の筆頭を飾って毎年五月三日に下鴨神社(賀茂御祖神社)で行われている。いわば賀茂祭は騎射をもって始められるのだ。

 弓矢は、いうまでもなく狩猟と戦闘とに、古代文明のかなり初期の段階から、世界中で人間の歴史をともに歩んで来た。そしてそのテクノロジーとしての役目は、とっくに終えている。興味深いことに、役に立たなくなったことによって、日本では、なくてはならない物になったのである。

 馬は、中世や近世の日本人が駆っていた在来種馬ではなく、サラブレッドに乗る。背が高く、ことのほか敏感で、恐ろしいようなスピードである。そうした馬でも騎射に馴らせることができるのは、普遍的な技術による。また、それを伝えている射手は、時代の移り変りの中で生きつづけているものに魅せられた現代の人間である。
 時速45から55キロで全力疾走する馬の上で、風圧で重くなる長い弓を大きな力を使って矢継ぎ早に引いてゆく行為は十分に危険である。しかし伝えられてきた稽古をただしくつむことにより、馬上での大きな動作が可能になる。鎌倉時代頃に完成した和式の鞍のカーブが、動作をする体に精妙に合致していることを実感するが、実用性の追及のはてに、美術品としての美しさを具えたことは、驚きにあたいする。

 私と家族は縁あって、痛んだ木造家屋を修復して暮すことを選んだ。私どもにとってそれは、はやりとは無縁の、失われてゆくものの中であくまで日常生活を玩味する暮らしである。
 騎射も、町家暮らしも、めずらしくもなかったものが時代の変化の中で特殊性を帯びてきた、という同じ事情を持っている。当事者としてその中で生きる私達は、ほかの人には気づきえないものをしっかりと見つめ、伝えることが可能であると思う。

 さてこの神事は、明治2年で廃絶したが昭和48年に再興され、いまでは京都の初夏の行事として定着しているといってよい。射手は、源頼朝以来の武家故実を伝える弓馬術礼法小笠原教場の騎射門弟が奉仕している。
 的中にどよめき、失(しつ)に落胆し、暴れ馬に騒然とする糺の森の一日は、数百年前のにぎわいとあまり変らないだろう。お宮、森、馬、道具、装束、諸役、射手、参観の人々、そうしたものが渾然となって、神域をみたす。
 奉仕者の烏帽子にはフタバアオイとカツラを組み合わせたカザシがゆれる。人類よりもはるかに古い起源をもつ植物をシンボルとして敬意をはらうセンスにため息がでる。

 かつて、ユーラシア全土でさかんだった騎射が、なぜ日本だけに残っているのか、その理由について思いをめぐらせながら、新緑に遊ばれるのも一興かと思う。
(京町家友の会会員)
<写真撮影はすべて細野喜由>
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