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京町家友の会
会長とティータイム
◎第5回……美好園にて(2011年3月11日)
〈松村篤之介(友の会会長)〉

●家の庭は、今梅の木が遅がけの花盛りです。北野の天神さんの終い天神で買った25年生の梅でしたが、買ってからもう25年経ちましたから、現在50年生の梅の木です。品種は「思いのまま」。1本の木に紅梅と白梅が咲くという気ままな梅の木です。そこにウグイスのつがいがやって来て、花の蜜をつついています。

●これは以前青年会議所の分科会で話し合われた話題なのですが、「雀はどうして落ちることなく細い電線に止まっていられるのか」。みなさんはどう思われますか?それほど握力が強いのか、なぜ電線が風で揺れても逆さになってしまわないのか? 足に特別な粘液があるのか?
 その結論は哲学的なものでありました。「雀は落ちそうになってもいつでも飛び立つ自信があるからその場に止まっていられるのだ」というのです。結局私たちは平素からの心構えが必要なのではないか、それがあればいかなる事態が生じてもしのぐことができるのではないかと思います。

●今日は船の舵の話をします。船は小船も大船もすべて同じ決まりで操行します。右に切るのが面舵、左に切るのが取舵、まっすぐ進むときは「ようそろ」です。「宜しく候」の略ですが、船は急に舵を切ることはできません。みなが動揺するような非常事態にも、艦長は道を定め、大きな声で「ようそろ」と言えるようにしたいと思っております。

●前にも話しましたが、私の家は明治43年に建てられた町家です。戦中戦後の混乱期に銀行の担保流れとなっていた物件を、昭和25年に父が購入しました。最初に見たときは荒れていましたが、父は丁稚奉公の時代からこの家のすばらしい普請を見ていましたので、進んで購入し、結局買った値段より高い改修費をかけて家を直したのでした。
 その父は生前から「自分が死んだらこの家から出してくれ」と言っていましたし、母も同様でした。そんなわけで、私もいつしか家への思いを深めるようになりました。そして京町家再生研究会の会員となり、友の会の発足にも関わっていくこととなったわけです。
 当時は大きな家を普請しようと思ったら、まず山を買ったそうです。私の家を建てられた方も、まず山を買い、その山の木を見て、家のどこにどの木を使おうと決めて、伐った木をねかせて時を置いてから、家の建前をされ、普請は3年かかったそうです。スケールの大きな話ですね。
 昔の家は間口が狭く、奥が長くて土蔵があるという職住一致がほとんどでした。大正中期から昭和の初め頃にかけて、店の主は左京区や北区に自宅を造ることが増えました。我が家も店は室町御池を上がったところでしたが、昭和8年に千本今出川に自宅を設けました。昭和25年に移った今の家には、それまでの家で使っていた物を持っていきました。ですから籐筵や網代などももう80年以上経つわけですね。古いものの飴色の色合いは美しく、今からではなかなかできませんので大事にしたいと思っています。
 町家での住まい方は、声は聞こえるけれど聞かない、見えるんだけれど見ない、という努力をしないといけませんね。若い人はプライバシーを大事に言いますが、町家は、座敷かなあと思っていた空間が寝室にもなるし、居間が台所や納屋にもなるときもある。そう言うことを承知して暮らさないといけないですね。
 また、昔は家に大切なお客さんをお呼びするもてなしが結構ありました。母は、蔵の中のどこに何があるかを熟知していて、指揮官となり、私たちに物の出し入れや扱い方を教えました。家の拭き掃除掃き掃除など手伝いも兄弟でよくさせられましたね。子どものときは面倒でいやでしたが、そうやって家の物の由来や大事な物の取り扱い方を覚え、しつらいも学ぶ経験になったわけですね。
 家にはいつも親戚の子どもがだれかしら同居していることが多く、甲斐性のある者が若い子弟を個人的にサポートするということは、そう珍しくないことだったと思います。むずかしい時代でしたが、みなが持ちつ持たれつ支え合いながら生きていましたね。
 5回にわたり、ご清聴ありがとうございました。

* * *

 この日のお話の最中に、3月11日の東日本大震災が起きました。京都の揺れは大きくはありませんでしたが、めまいのように続く長く気持の悪い揺れで、みなで不気味に思っていたところ、その後大変な被害状況が次々と飛び込んでくることとなったことは忘れられません。非常時の対処の仕方、上に立つものの心構えなど、期せずして意味深い内容となりました。今回にて「松村会長とティータイム」は一応終了となります。ありがとうございました。
〈小林亜里(友の会通信担当)〉

2011.7.1