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京町家友の会
会長とティータイム
◎第1回……やげんぼり末吉町店にて(2010年7月10日)
 この集いでは町家のことにこだわらず、私のことや身のまわりのこと、考えていることなどお話してみたいと思います。
〈松村篤之介(友の会会長)〉

●近頃の報道を見聞きする中で、国対国の関係がぎくしゃくしていると感ずることが多いように思います。私は仕事で海外にも会社を作っている関係上、国外の方々とお話しする機会がありますが、そこで思うのは、欧米の方は会話がウィットに富んでいるというかジョークがうまいということです。たとえばオランダとベルギーはあまり仲が良くないけれど、多少きわどい話でもジョークでかわしていると感じるときが間々あります。日本人は民族性もあるのか、そうした部分が苦手ですね。もう少し言葉のやり取りにウィットがあってもよいのではないか、私自身もそういう人間でありたいと常々思っています。

●私は1926(大正15)年、室町三条上ルで生まれました。役行者山町でしたが、その後店は室町御池上ルに移り、自宅は千本今出川にありましたので、龍池小学校に電車通学で通いました。5人兄弟の次男坊でしたが、長男が終戦直前に満州で亡くなり、思いがけず家業を継ぐことになりました。父は京呉服白生地問屋を営んでいましたが、業界の趨勢もあり、昭和30年代で店を閉めました。一方戦中創業に関わったベークライトプラスチックの会社は順調に業績を伸ばし、私も昭和38年より参画することになりました。海外にも13社が育ち、今は社長、会長を退いて相談役として仕事に関わっています。

 私は母を2回泣かしたことがあります。兄弟の中で自分だけが違う産院で生まれていたので、「自分だけ継子と違うか」と言ったところ、母が大粒の涙を流しました。もう1回は大学に入った頃、若気の至りで理屈をこね、「お母さんは私が我が子だとわかっているかもしれないけれど、私にはお母さんの本当の子どもかどうかはわからない」と言ったところ、母はポロポロと涙を流して泣きました。しまった!と思いましたが後の祭り。悪いことをしたなという思いがいつまでも残り、罪滅ぼしの思いを込めて、大学の卒業式には、母に正装をして同行してもらいました。

 人は皆胸に秘めるものを持ちながら一生を送るのだと思いますが、一応健康な体質と人並みの常識を備える素質を与えてくれたことに感謝しています。

●私はこれまで会社の創業記念日に、勤続表彰の従業員に色紙に言葉を書いて渡してきました。それは「量的累積 質的変化」という言葉です。弁証法の論理の骨子でありますが、その平易な意味は、「量的に累積しなければ質的な変化は起こらない、質的に変化を求めようとすれば量的に累積が必要である。積み重ねていけば必ずやある時劇的に変化が現れる」というものです。

 これは私が学生の時にぶつかった言葉です。私は戦争中を海軍兵学校で過ごし、戦後昭和21年に京大の経済学部に入りました。元々は地球物理をやりたかったんですが、家業を継ぐべく経済を専攻しました。戦後の経済学部はマルキシズム全盛の時代で、思想的、哲学的なことはなかなか難しかったのですが、この言葉に出会って悟ったといいますか、自分がこれから生きて行く上で、こうありたいと腹を決めたのがこの言葉です。

 人間やっぱりこつこつ積み重ねていかないと、高望みをしても期待する質的な変化は起こらない。質的な変化を求めるなら量的な累積が必要だと自分に言い聞かせ、これまで歩んできました。話がちょっと硬くなりましたが、私はこれをモットーとして生きているつもりです。

* * *

 その後はティータイムとなり、祇園鍵善さんの「祇園まもり」とお茶をいただき、さらにQ&Aへと話は続いてゆきました。会長やご両親のご結婚のなれそめの話、お父様のお話、今のお住まいを得たいきさつから改築への経緯など話題に上りましたが、驚いたのは、今のお住まいをお父様とご一緒に初めてご覧になった時のこと。  明治43年に建てられたその家は、当時室町筋でも評判の普請だったそうですが、戦中戦後の混乱で住まい手を失って銀行の所有となり、昭和25年にはすっかり荒れていました。会長は「こんな家は嫌や」と思われたそうです。しかし、お父様は普請時からこの家をご存じで、丁稚奉公のときに前を通っては「いつか自分も一生のうちにこんな家を建てたいものだ」と思っておられたとのこと。「こんなにすばらしい家はない、磨けば本物になる」と購入を即決され、その後手をかけて家を直していかれたそうです。そうした経緯をへて今のお住まいがあり、お父様への思いと共に、会長は家を大切に思い住まわれておいでなのだと知ることができました。
〈小林亜里(友の会通信担当)〉

2010.11.1