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京町家再生研究会

寄り合いの場としての京町家……上京区・Fh邸

磯野英生(成安造形大学教授)
 今回訪問した京町家は、西陣にある。周囲の家々は、建て替えが進み、伝統的な家並みがなくなりつつあるように感じた。人通りや車の行き交いも少なく、静かな通りにその町家は面していた。
 この町家には、福原さん御夫妻が二人で住んでおられる。お話は、ご主人の福原亮二氏にうかがった。福原さんは、かつて電電公社(現NTT)に勤めておられたが、現在は自宅で悠々自適の生活を送っておられるようにお見受けした。やはりNTTにお勤めの息子さんご夫婦とお孫さんが通りを隔てた向かい側の家に住んでいる。同じ棟ではなくしかしごく近くに息子夫婦が住んでいるという住まい方は、核家族化が当たり前になってしまった現在の日本の家族にとって理想的な住まい方のように思われた。同居となるとどうしても家族間の葛藤が激しくなりがちである。価値観が世代によって大きく異なる過渡期の日本社会では、お互いの助け合いを可能とし同時に各家族の独自性も尊重する相矛盾した問題を解決するには、近くに住むということが上手なやり方であると思う。

 さて、福原さんのお宅の敷地は、90坪弱で町家としてはなかなかの規模である。延べ床面積は45坪ほどとうかがったが、もう少し広いようにも思えた。福原家は、祖父の代では、西陣織を使った袋物問屋を家業としていたそうだ。その祖父が98年ほど前に、建て替えたのが現在の町家である。袋生地の見本帳を自然光のもとで見やすいようにということで建て替えられたそうである。建て替える前の町家は、坪庭を取り込んだいわゆる表家造りの町家であった。この家の面白いところは、大切な客は2階の座敷に迎えるというところである。つまり正式の座敷が2階にあるということだ。見せていただくと床柱が唐木の銘木「タガヤサン」であって驚かされた。床も奥行き半間ある本格的なものである。そこへ上る階段も曲がりながら上がるという珍しいものであった。もう一方の脇には、階段が新設されて動線がもう一つ確保されており、客が用を足す折りに家族の日常の住まいを乱さないように工夫されていた。この2階の座敷は奥さんが習字の時に使われているそうだ。


ファサード(撮影:磯野英生)
 現在の当主は、2階の街路に面した部屋を書斎とくつろぎの場所にしておられる。接客もここに応接セットを置かれ、ほとんどここでおこなうと言っておられた。
 1階の通り庭も、床を造らず、昔通りの使い方をしておられる。奥さんもそれが当たり前のことと受け止めておられる。冬はやはり寒いとは言っておられたが。
 前置きが長くなってしまったが、今回の改築は、常々気になっていた通り側の床の沈み込みを元に戻すということから始まった。数度の打ち合わせの後、建設当時に戻すという基本方針を立て、改築に臨むことになった。作事組の梶山氏が設計を担当し、工事は熊倉工務店の中西氏が担当した。床を上げるためにジャッキを7台使用したが、そのうちの5台は以前から福原家がもらい受けていたネジ式のジャッキを使用し、近年よく利用される油圧式のジャッキはそれを補充するかたちで使った。床を上げてみると、今度は建具が合わなくなった。結局12枚の建具を新たに造ることになったそうである。壁はジャッキアップによりひびが入るため、塗り替えた。階段の壁の板張りもはがし、元の状態に戻すべく、塗り替えた。ガラス障子も新しいものに入れ替えた。外部では、駒寄せを白木のままでおいていたが、市の指導もあって木目を残しながらも色を付けたと聞いた。

 西陣の不景気は、車の往来でもわかるそうで、以前は前の通りをひっきりなしに車が通ったが、今はほとんど通らないそうだ。町内会の活動もいつのまにか大きく変貌を遂げていて、それは町家がなくなっていったことと関係がある。福原さんは、現在町内会の会長と自治連合会の副会長を引き受けられている。町内会の活動、例えば、地蔵盆の景品を整える場所として町家の間取りが使いやすいのだが、その町家が町内からほとんど消えてしまっているという現状がある。このままずっと町内会の会長をやらないかんのかいなと笑っておられたが、なかなか深刻な問題である。町並みが変わるということが、社会的な関係にまで影響を及ぼしてくるということを知ったと言っておられたが、まさしくその通りである。

 その一方で、福原さんは淡々と生活されているようにもお見受けした。生来の機械好き(?)のこともあってだろうが、現在「おもちゃ病院」を運営されている。壊れたおもちゃを修繕し、また送り返す仕事をボランティアでやっておられるのだ。退職後の生活をこれほど楽しそうに、生き生きと送っておられる姿を拝見すると、こちらも楽しくなってくる。こうした見識の豊かな、そしてしなやかな感受性を持っておられる町家の住み手がまだまだたくさん京都におられるのだと考えると、まだまだ京都もまんざらでないぞと思えてくる。

2004.11.1