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京町家再生研究会

祖父と孫をつないだ京町家…下京区・今西軒

磯野英生(再生研究会幹事・成安造形大学教授)
今回訪問のお宅は、下京区揚梅通諏訪町角(五条通の一筋南、烏丸通から西へ入った西南)、今西軒というおはぎ屋さんである。
 ご当主と奥さん、お子さん、そして、祖父の末一さん80歳。うかがった折りには、ご夫婦が土間で小豆の選別をやっておられ、傍らの畳の間では末一さんがひ孫さんの子守をやっておられた。ご当主に話をうかがった。
 当家は、明治の30年頃、末一さんの祖父の代にこの地に移り住んできたそうである。建物は、江戸の末に建てられたものと聞いているとのこと。もともとは平屋であったものを、80年ほど前に2階を建て増しして今日に至った。このお店は、末一さんで三代目となるが、神戸の震災の年(7年前)に、店を閉じられたと聞いた。一方、孫にあたる現在のご当主は、父母の営んでいた呉服関係の仕事を手伝っていた。しかし、長い不況と伝統産業の疲弊のなかで、先行きに不安をおぼえていた。そして、家族会議を開いた折り、祖父の営んできた家業を復活してみたいという思いにとらわれた。継ぐなら祖父の年齢を考えると今しかない。今西軒は、看板のおはぎが美味しいという評判もあり、商売の土台もある。お客さんもいる。ご当主は、祖父からあんづくり、おはぎづくりのかんどころを一から学んだ。直接お話はうかがわなかったが、末一さんもきっと嬉しく思われたに違いない。開店の日は、2002年の2月3日とした。節分の日は、物事の始まる日だからということであった。
 店の手直しは、知り合いの方から京町家再生研究会の話を聞き、京町家作事組に頼んだ。作事組の田中昇氏が隣の町内に住んでいたということも、安心できた。
 店の雰囲気をとにかく明るくしたかったと聞いた。店には今西軒を描いた三田村宗二氏(1938〜1996)の額がかけられていた。その絵に描かれたガラスのショーケースの置かれた花崗岩の石のがっしりとした土台が二台並んでいる姿は、たしかに重々しく、店もほの暗い。しかし、美味しいものが奥の暗がりで作られ、店の表に出てくるといった風情はかけがえのないもののようにも私には思われた。また元に戻す機会も訪れるに違いないとも思った。外部の柱は、雨ざらしになっていたためか根元が腐って空(うろ)になっており、根継ぎをおこなった。土間の割れも直し、壁も一部塗り直した。木部は内外ともご当主が洗い直したそうで、そうすることで家に対する愛着がいっそう強まっていった。仕事場の吹き抜けはなかなか気に入っているそうで、気持ちがよいと言っておられた。これも保健所から衛生上の問題から天井を張るようにといわれたそうだが、町家の良さを理解してもらい、残すことができた。じっさい幅の狭い作業場の吹き抜けは、開放感があり、働く気概がわき起こってくると感じた。
 残念なことがひとつあった。地下鉄工事の後、井戸の水が枯れてしまったそうだ。豆腐や麩などの食品もそうだが、おはぎづくりにも水はとても大事なはずだ。ご当主も、これが気がかりで、濾過器を使い、備長炭も使って、水には人一倍気を遣っている。いずれ井戸を復活させたいという一言が私を勇気づけてくれた。
 店が再開したころ、店に出ている奥さんやお母さんに対し、「店が復活してよかった」といって涙を流されたお客さんが何人もおられたそうだ。また、若い頃の話だがとことわって、「学校で行事があるときには、周辺のお饅頭やさんに平等に発注されたお饅頭が配られたが、そのときの話題は今西軒のものが誰に当たるかだった」と言ってくれたオールドファンもいたと聞いた。
 現代は、愛着をおぼえていた店が廃業し、風情のある建物があっという間になくなってしまうことが多い。人間は、自分自身が生きてきた場所や建物が、あまりにも急激に変貌したり、あるいはなくなったりすると、いらだちを感じたり、否、それ以上に、アイデンティティの喪失の危機に遭遇するのではないかと、私は考え始めている。生を受ける前から存在しあるいは死後も存在するものがあるという思いこそが、心の安寧を手にし、また現在を生きる自分自身に生きる勇気を与えてくれるのではないだろうか。ご夫妻のさらなる精進を期待したい。
2003.9.1