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京町家再生研究会
宗田好史(再生研副理事長)

南アジアとの町家再生交流に向けて―国際交流基金の支援が始まる

 20年余の活動の中で京町家再生研究会を訪れるアジア諸国の人々が増えている。研究会からも小島理事長を筆頭にタイや香港など、伝統建築と歴史都市の保存に取組む市民団体を応援にもいってる。この四半世紀、日本でも町家・町並みや都市の歴史的景観保護への取組みが進んだ一方、経済成長著しい東アジア、東南アジア諸国でも人々の関心が伝統建築、町並み、そして伝統文化の再生に向かっている。

 そこで「町家から創造都市へ」と題し、アジアの伝統文化を創造する協働作業をはじめようという事業に今年度から国際交流基金の支援を受けることになった。ここでいう「伝統文化を創造する」という言い方に違和感を持たれる方がいるかもしれない。伝統は守るもの、継承するものという古い考え方があるからである。しかし、我々京町家ネットの活動は、まず作事組の再生事例の数々を見れば分るように、伝統を尊重しつつも創造的な再生を続けてきた。多少の出来不出来はあったとしても、町家がより美しくなり、住民の創造的な活動が再生できるように創意と工夫を重ねてきた。これをアジア各地との協働作業にしようと提案し、3か年の交流事業を始めることになった。

 実際、アジアの町家、東南アジアでは「ショップハウス」と呼ばれるが、その創造的再生事業は拡がり、マレーシアではペナンとマラッカの町並みが世界文化遺産にも登録されている。その背景で、タイやインドネシアでも、大工、左官、建具師とともに住民が建築家とともに暮らしの文化の再生を始めている。

 伝統文化の創造的再生は町家に限ったことではない。暮らしを彩る工芸品の数々がこの京都では今もよく継承され、新たな魅力を発信している。染織、陶芸など多くの工芸作家と京町家再生には深い繋がりがある。

 一方、東南アジア諸国には京都でも馴染みのある絣、更紗、絞染、紋織など染織工芸品や、宋胡録、安南などの陶磁器が多い。絣はインドネシアのイカットが代表で、タイのマットミー、パリ島のグリンシン、スンバ島のヒンギーが知られる。インド起源の更紗は、タイ更紗、ジャワ更紗として和装にも用いられる。特に、ジャワ更紗はバティックと呼ぶ蝋結染が有名で、ジャワ島中部のジョグジャカルタが名産地、男女の正装に今も用いられる。他にも巻締めはプランギ、縫締めがトリティックという。紋織(浮織)とは、文様を浮かせて織る技法で、インドネシアやマレーシアには、ソンケット、ポヒクン、ディモール島には縫取織のブナ、タイやラオスにはキット、ムック、チョックなどがある。

 25年以上も昔の話だが、インドネシアの大学教員を吉田孝次郎氏の無名舎に案内した折、吉田氏の豊富な工芸品コレクションから絣、ジャワ更紗等を見せていただいた。何百年も前に渡来した品々が京町家に伝えられていることにインドネシア人の方が驚いていた。そして吉田氏が、古都ジョグジャカルタの工房の様子、生活の中の工芸として親しまれているか、一時間以上も受け答えが続き、案内と通訳を務めた私にも強い印象が残っている。

 一方、東南アジアの陶磁器は中国や朝鮮半島製のものほど有名ではないが、南蛮貿易で渡来したものが茶の湯の世界で珍重された。宋胡録はタイ北部スコターイ県サワンカローク郡で焼かれた白地鉄絵の茶碗、安南はベトナムの旧名で染付茶碗や花生け、水指に用いられる。安南には、11世紀頃の薄手の白磁の皿や鉢が、また14世紀には白地に植物を描いた繊細な染付、青花蓮池文盤が、さらに15世紀の五彩がある。中国だけでなく、インドの影響を受けた中部のチャンパ王国の文化だといわれる。これら古美術が日本でも尊ばれたのは、当時の国内産地より2〜300年ほど先行していたためといわれ、南蛮物、島物と呼んだ作品は今も京都をはじめ日本各地に残っている。遠い昔から東南アジアと京都に人や物の行き来があったこと、その交流が今も我々の伝統の底流に流れていることを思うと、町家再生の国際交流に期待が高まってくる。京町家を受継ぐ次世代の人々にぜひ発展させていただきたい京町家の文化的意義である。

 京都に来る前の7年間、私は国際連合地域開発センター職員として「アジア大都市の開発と保全」という支援事業に従事していた。その狙いは、グローバル化の中で埋没しがちな各国、各都市の多様な伝統文化、町並みや工芸技術を活かした社会と経済の発展を目指す地域文化力を育てる点にあった。そのモデルが日本の京都だったことは言うまでもない。

 この事業で設立した「アジア西太平洋町並み保存ネットワーク」の交流事業は今も続き、今回も奈良まちづくりセンターの皆さんと共に、我々再生研のメンバー4人も2016年1月のバリ島会議に参加する。我々の遠大な狙いが実現するには、まだ半世紀以上の年月を要するだろう。京都と京町家が、彼らのモデルと胸を張って言えるように漸くなりつつある。25年前には吉田さん一人がその意義を訴えていた。あの時のインドネシアの人々の驚き、ジャワで身近な染織品が吉田さんの手で広げられた折の喜び表情が忘れられない。今度は、京町家ネットの皆さんにも東南アジアの作家たちを迎えてほしい。そして、皆さんで東南アジアの町並みと工房を訪ねて歩く機会を計画したいと思う。

2015.11.1