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◆京町家コラム
第5回 京洛小史
望月秀祐

●海底の京都盆地
 今から130万年前から30万年前までの間に合計7回にわたって、古京都湾といわれる海底が出現したと考えられています。その時期は洪積世と呼ばれて、寒冷な気候の氷期と温暖な気候の間氷期とが数万年ないし、数十万年の間隔で繰り返され、温暖な時期に海水準が上昇し、京都盆地にまで海水が浸入してきたのです。
 京都盆地全体が海で、魚が群れをなし、京都三山の際まで波が打ち寄せていた風景は想像し難いが、太古はそうであったようです。

●京町家のはじまり
 古代平安京の庶民の住まいは、「小屋」と呼ばれる程度のもので、中世初期には都心の四条室町周辺にミセ(店)屋が建ちはじめました。間口2〜3間、奥行3〜4間、ミセとダイドコ(居間)の一列二室型の最小限の町家群でありました。そのほとんどが平家建てで屋根は石置板葺(ふ)きでした。
 永禄2年(1559)、イエズス会の司祭ガスパール・ヴィレラは、四条西洞院に一軒の家を借りたところ、今にも倒れそうな掘っ立て小屋で、壁は細い葦(あし)で囲っただけ、屋根は藁(わら)で葺いてありましたが、雨が降れば漏れる馬小屋同然のひどいものであったとのことです。当時の貧しい人々の町家はこの程度のものであったのかも知れません。

●京の超高塔
 往時、白河一帯に建立された六勝寺(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)は、歴史的に有名です。このうち、法勝寺(現市立動物園所在地)は承和2年(1075)白河天皇の御願寺として、造営されました。
 法勝寺を特徴づけたものに八角九重の大塔があり、その高さは27丈(82m)を超えるもので、永保元年(1081)に着工され、3年後に完成しました。
 この大塔は、百年後の元暦2年(1185)7月の京洛史上最大の京都大地震(マグニチュード7.4 兵庫県南部地震の2倍のエネルギー)によって大破壊しています。「平家物語」の記述によりますと、「白川辺の六勝寺はみな倒壊し、九重の塔も上の六層がくずれ落ちた」とあります。
 実際は、大塔の相輪が折れ、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根が全て落下し大塔の胴体部分だけが残り、辛うじて倒壊を免れています。しかし、承元2年(1208)に落雷によって焼失してしまいました。その後再建されましたが、康永元年(1342)に周辺の町家火災の飛び火により再び焼失し、以後は再建されませんでした。

●京都大地震元年説
 京都周辺の主な地震(平安以降)を調べますと、元年に起こった地震が多いことに気付きます。以下に代表的なものを並べます。
  天慶元年(938)4月15日
  文治元年(1185)7月9日
  宝徳元年(1449)4月12日
  慶長元年(1596)7月9日
  天保元年(1830)7月2日
 一見して、和暦元年が地震の当たり年のように思われます。実際は大地震など大きな厄災が発生すると、朝廷は穢(けが)れを嫌ってすぐ元号を変えたためです。具体的に説明しますと、元年のはじまりは天慶は5月22日、文治は8月14日、宝徳は7月28日、慶長は10月27日、天保は12月10日からです。つまり、地震があった年の元号は、その前の元号、天慶元年→承平7年、文治元年→元暦2年、宝徳元年→文安6年、慶長元年→文禄5年、天保元年→文政13年で呼ぶのが正しいのです。
 しかし、慶長大地震で伏見城が倒壊した歴史を良く知っている人々にとっては、今さら文禄大地震と言い換えるのもおかしいですが、この大地震が起こったのは正しくは文禄5年7月9日です。
 少し変わったことに、1185年は2度改元されています。それは寿永3年3月に平家が壇ノ浦で全滅した後、4月16日に元暦に改元され、続いて7月に京都大地震が起こった後、8月14日に文治に改元されています。

●お土居
 天正19年(1591)2月早々、豊臣秀吉は「お土居」の緊急築造を命じました。秀吉による京都大改造のはじまりでした。右図に示すとおり「お土居」はその延長が20キロメートルに及ぶ長大な土塁でしたが、たった2ヶ月で完成した事実に驚かされます。積み上げた土はお土居の外側を掘り下げた土が大半で、そのためお土居の外側には大きな堀ができています。お土居築造の目的は鴨川や紙屋川の氾濫防止と外敵からの警護にありました。
 しかし、お土居になぜ「お」が付けられているのか定かではありませんが、最初は大きい土塁だから「大土居」と呼ぶにはじまり、後に秀吉に対し敬意を表する意味を兼ねて、あえて平仮名で「お」と呼ぶようになったものと察します。
 このお土居の鴨川沿い部分は、北は相国寺付近から南は五条までの寺町通との間の土地に市内の寺院が南北一列に並ぶように強制移転されています。
 寛文10年(1670)に鴨川が大改修され、現在の堤防の幅に縮小された後、お土居と鴨川の間の「新地」が急速に市街地化され、川原町通(現在の河原町通)ができたときには、お土居は無用の長物となり潰されて無くなりました。古文書によると、お土居の位置(東縁)は河原町通から西へ約20メートル入ったところにあります。例えば京都市役所の本庁舎の東棟部分はお土居の上に乗っています。