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◆京町家コラム
第4回 祇園御霊会(ごりょうえ)とシルクロード
望月秀祐

 延暦4年(785)、早良親王が非業の死を遂げた後、早良怨霊が出現したとして、桓武天皇はわずか10年で長岡京を棄都した。
 怨霊は、早良親王の怨霊が桓武天皇や安殿皇太子等に祟ったように、本来権力の座にある特定の個人に祟る性格のものである。
 ところが、9世紀の半ばを過ぎたころから、これらの怨霊は特定の個人に祟る存在から疫病をもたらすものとして、広く民衆に災いを及ぼす存在へと政略的に変質されていった。菅原道真がその一例である。
 民衆は疫病の祟りを避けるため、怨霊を御霊として祭る御霊会(ごりょうえ)を、祇園、出雲路、船岡、紫野などの洛外周辺で毎年盛大に開いた。
 祇園祭、正しくは祇園御霊会は、貞観11年(869)、疫病が絶えないのは牛頭天皇(ごずてんのう)の祟りであるとしてはじまった。
 祇園御霊会は室町の呉服問屋街の財力を存分に活用して最大の効果を狙った。それは怨霊を追い払うために、最高のおもてなしをしたのである。本来なら京都伝統の高級染織で着飾った山鉾の巡行で十分であったが、遠く西域の今のイラン方面から輸入された最高級外来織物を山鉾の懸装品(けそうひん)とし、怨霊を手厚く歓待し無事退散していただくことを願ったのである。これらの西域の織物はシルクロードを経由して運ばれた。
 シルクロードの開発者は中国の張騫(ちょうけん)である。紀元前2世紀半ば、漢の武帝の時代、依然として侵略を繰り返す北方民族の匈奴(きょうど)を征伐するため、西域の遊牧民月氏(げっし)と組んで挟撃する策を立て、張騫という若者を西域へ送り込んだ。張騫は匈奴に2度も捕らわれながら、二十数年の長年月を要して都長安に戻り、西域との連絡路を確保した。これが後にシルクロードと呼ばれるようになった。
 シルクロードは絹の道の意味のとおり、東西文明の美術工芸品の交易路となり、特にユダヤ人が染めて織った織物がシルクロードを経由して日本―京都へ運ばれた。そのためシルクロードはユダヤロードとも呼ばれた。
 昭和23年(1948)、ユダヤ人はその発祥の地であるパレスチナに祖国イスラエルを再建した。今から53年前のことである。
 紀元前722年、ユダヤ10支族でつくる北のエフライム王朝がアッシリア帝国の侵略を受け、国が滅び、10支族は世界中に離散して歴史のなかに消滅した。一方、南のユダ王朝(ユダ、ベニアミンの2支族)も紀元前70年にローマ帝国に滅ぼされ、生き残ったユダヤ人は以後2000年の長きにわたり世界中を放浪することになった。
 失われた10支族のうち1支族が、昭和59年(1984)エジプトで発見された。日本へも別の1支族が移ってきて同化したと言い伝えられている。ユダヤ人は祇園祭を見て自分たちの祭ではないかと驚く。祇の字を誤って「祗」と書くとシオン祭になる。シオンとはイスラエルの聖なる丘の名であり、ユダヤの別名をも意味している。失われた西域民族と孤独を貫いた極東民族が融合したことを私は信じたい。