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◆京町家コラム
第3回 京都大変
望月秀祐

 明治維新の4年前のこと、元治元年(1864)7月19日午前7時、嵯峨天竜寺に駐屯していた700名の長州兵は夜陰に乗じ、途中で妨害されることなく、京都御所を厳重警護する薩摩・会津の両藩を主力とする連合軍を奇襲し、御所へ突入しようとして蛤御門前で激烈な戦斗がはじまった。

 世にいう「蛤御門の変」「禁門の変」である。双方が大砲を烏丸通に据えて砲撃したので、宮中は大混乱に陥り、緊急退避のため「三種の神器を入れたる唐櫃も椽側に並置せられ」たままであったというから、宮中の狼狽ぶりがわかる。しかし、十分の一にも足らぬ兵力の長州兵は結局半日の戦斗で敗北し、家に付け火をして敗走した。

 御所周辺の町家と河原町二条の長州藩邸から発した火は、折からの烈しい北風にあおられ、火は南へ延びて大火となった。大火は三日間燃えつづき中京・下京の町は火の海と化した。当時の瓦版の伝えるところによると、北は御所付近から南は現在のJR京都駅付近まで、西は東堀川から東は河原町通まで全焼し、千二百五十町、三万七千軒、千五百土蔵が焼失したといわれる。この火事は、兵火のため「鉄砲焼け」といわれ、また大火のため「どんどん焼け」ともいわれた。

 当時の模様を熊倉吉太良氏(熊倉家御11代当主)が、次のように伝えている。
 「京都の民家と言いますけどもね、大部分は鉄砲焼けから建った家が多いですね。中京はほとんど焼けています。そうしますと、われわれが内容を見ますと、これ案外バラックが多いですね。上手につくってあるけれども、よくわかるんですよ。」

 庄家若山要助の手記(要助日記)によると、7月19日午前7時ごろ、甲冑(かっちゅう)に身を固めた数百騎が、抜身・槍を携え、旗や馬印を押し立て、村のなかを南へ北へと駆けた。しばらくして御所辺より鉄砲と大筒の音が響いた。軍(いくさ)が始まった。と思う間もなく、午前8時ごろ河原町二条の長州屋敷から火の手が上がった。打合いで鎧(よろい)武者の死人もおびただしく出て、上(かみ)辺の町の男女とも雑具つづらを持ち運び、上を下へと逃げまどった。御所辺にも火の手が見えた。

 20日朝、四条通と仏光寺通の間で火勢が少し弱まり、ひと安心した。ところがまたまた大筒が打ち込まれ、北西の烈風にあおられて、火は仏光寺御堂に移った。

 翌21日は、町に焼け残っていた土蔵に火が入り類焼した。市中の人々は九条・竹田に次々と避難した。東塩小路村も、青物畑のなかに所構わず日陰を設けて休み、焼跡に立ち戻ることもできずに野宿するものであふれた。大火のため米・醤油・塩ほか日用品が手に入らず、弱り切っていたが、ようやく御救米や粥(かゆ)を下さることになった。
 近江の旅商人元蔵の手記(見聞目録)によると、19日午前2時ごろ、国もとの位田(いんで)村から京へ走った。守山宿で京の火が見えた。午後1時ごろに着くと、長州藩が御所内に押し寄せ大合戦の最中だった。