■■読者レビュー■■
京町家の再生がブームのように語られている。
どうしてだろう。千本格子やバッタリ床几に虫籠窓、内部の太い梁組など、京町家の伝統的な意匠や風情が魅力なのか。しかし、京町家の伝統形式は京都にし かない、わけではない。京町家と同類の意匠や形式、あるいは構造の形式までもが、近畿一円に多く残る歴史的な町並には容易に見いだせる。そればかりか、北は盛岡(岩手県)から南は福岡など、日本各地に残る町家の多くに、京町家に通ずる伝統形式を求めることができる。
京風の意匠や形式は、京町家の専売特許ではない。近世、京町家の形式は、日本各地の城下町を中心に、その町家形成に有形無形の影響を与え続けた。むしろ 地方都市が京都を指向し、京町家をモデルに町家を造ったといった方が正確だろう。京町家は、他の地方都市が模倣すべき、日本の近世町家の理想形でありお手本であった。
京町家は、それを自覚してか否か、近世初頭に頂点を極めた外連や派手さを、その後みずからそぎ落とし、都市住居としての範となるべく、町家普請に洗練の 度を深めた。達成されたその完成度の高さこそ、京町家最大の特長であろう。完成とは、もはや加減の余地のない類型性である。
昨今の京町家に対する関心の広がりは、単に伝統意匠や情緒というレベルではない。都市に住み、都市を楽しむ住宅としての、その完成度の高さに人々がよう やく気付いたからであろう。町家を潰して、さて、どのように建て替えればよいのか。取り壊す際に、次の指針となるべき明確なセオリーと普遍性を備えた、いわば現代版京町家など、どこにもない。
建て替えよりも改修と再生こそ得策であるという思いは、本書によって確信に変わるだろう。実は、改修行為は京町家にとっては想定の範囲内である。改修を 受け止める柔軟性は、本書の豊富な実践例が実証している。完成度と柔軟性という京町家の特質は、日本における木造建築の一つのピークをなしている。
近世から近代、京町家の形式は広く全国に流布した。京への強いあこがれが京風の町家形式を地方都市へと移植した。京都における町家再生の先駆的な実践は、そのまま日本各地で応用的に継承されるべき下地がすでにある。
京町家の再生が、広く各地の町家再生を始動し牽引する動力とならんことを強く願う。その意味で、本書への期待はすこぶる大きい。
(京都府立大学人間環境学部環境デザイン学科教授/大場 修)
■■著者のことば■■
『町家再生の創意と工夫』上梓にあたって
前書『町家再生の技と知恵』をまとめるときは、町家の評価は分裂していた。「町家が優れていることは認めるが、今の暮らしに合わない。」といったことである。そこに打ち込んだ楔が前書である。
その後の町家に対する評価の高まりと町家を軸とした状況の変化はめざましく、作事組が進言する「元の状態に戻す」に応えて、そのまま住む人々も増えた。しかし一方では分裂は横に置いて、町家に相応しくない改修をする事例もそれ以上に増えていて、店舗系でその傾向が著しい。また変わったといっても、評価だけであり、町家を直して守っていく環境、すなわち法律・制度、経済、基準、慣習はなんら変わっていないのである。そのなかでの町家ブームであって、もともと根拠がない。
今、町家を直して利用していくことは根拠がないなかで、分裂と格闘する作業であり、それを乗り越えてさらなる改良を加えて、次代に引き渡すことが「創意と工夫」である。それを回避して町家の改修をすることは、流行が去れば元の木阿弥で終わるか、角を矯めて牛を殺すことになる。
このような町家の保全再生にとって危うい状況のなかで、町家改修の根拠や結果だけではなく、間にある過程を示す必要がある。それも格闘の様を有り体に。これが本書をまとめる動機であった。
「どうしてこんな書き方をするのか、これでは町家をほめているのかけなしているのかわからない。」改修の協力者で、本書をまとめる協力者でもあった施主から受けた詰問である。声をあげない施主も同様な想いであったことと思う。しかし整理して体裁よく示すことでは初期の目的は達成できない。
うち立てた根拠を実践のなかで検証するということでは、本書を改修マニュアルと呼ぶのが相応しい。また前書が町家を対象として評価し、町家が何であるかを示したのに対して、本書はこれまで転倒しているとされてきた町家の側から、町家を取りまく状況を観て、改修実践を通して町家のありように沿って環境を整えていくことこそが「町家再生の創意と工夫」である、という観点でまとめられている。その意味では静かなる革命の書である。 |