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京町家再生研究会
京町家通信  vol.101

大谷さんの思い出

 私が大谷孝彦さんと初めてお会いしたのは1999年12月初旬だった。実家の古家を改修したいと思い京都市景観まちづくりセンターへ相談に行ったところ、京町家作事組を紹介していただいた。京町家作事組事務局へはセンターの担当者が連絡をとってくださるということで、私はその足で東京へ戻った。それから数日後の夜、東京の自宅の電話が鳴り「京町家作事組の大谷と申します。今回貴家の設計担当となりましたので宜しくお願いいたします」という御挨拶をいただいた。電話のお声と律儀で丁寧なお話ぶりに好印象を持った。今度私が京都に帰った時に会って家を見たいということだった。

 それから1週間ほどして私は再び京都へ帰ることとし、大谷さんと当時の京町家作事組副理事長で棟梁の堀内さんが家を見に来てくださった。お二人には私たち家族の暮らし方や勝手な要望をお話しし、また多くの質問をぶつけたが、「わかりました」「大丈夫です」というお返事が多く、心強いことこの上なかった。大谷さんは、とにかく一生懸命に私の話に耳を傾けてくださり、年末には改修のイメージ図面を3パターン描いてくださった。「お正月休みの間にご家族でゆっくりご検討ください」ということだった。

 年が明け設計については何度も意見交換をしながらも春にはおおむね合意がみられた。見積書を持って来られた大谷さんは、なかなかそれを私の前に出されない。「高いと思われると思いますが・・・」と前置きが長い。その後ご自分の設計料の請求書を持って来られた時も同様で、こちらは何も言っていないのに「高いと思われると思いますが、決められていることなもんですみません」とおっしゃって申し訳なさそうにそうろと出される。「はい、わかりました」と言うと、本当に安堵されているのがよくわかった。

 工事が始まり屋根の下は壁と柱と梁だけになった時、それはまるで火事の焼け跡のようだった。特に何十年もベニヤ板で覆われていた二階の土壁は煤が積み重なって真っ黒な上に埃が積もっていて、作業する人たちもできれば近寄りたくない触りたくない状態だったのだろう。何となく作業の進みがのんびりしていた。すると大谷さんがささっと二階へ上ってホウキを取り上げ、ものすごい勢いでその埃を払い始められた。「こうしてやらないと」と自らがお手本となって壁の埃をおとされたのだ。もうもうと埃は舞うように大谷さんの頭の上に落ち、白いシャツもきれいなズボンも埃だらけ。その一部始終を見た私は大谷さんのいつもとは違う素早い行動に驚くとともに、この人を信じようと改めて思った。

 煤で真っ黒の壁の埃がすべてきれいに取り払われた後何日かが経って、大谷さんから私と主人がその壁の前に呼ばれた。「この壁はまだ使えます。傷んだとこだけを補修すれば持ちますから、このままにしときましょう。ローマの古代遺跡も欠けている箇所だけを補修してありますけど、それでもおかしくないんです。ここも京都の町家の壁のあり方がとても良くわかるので是非とも残したいのです」と力説された。私と主人はそこまで訴えるようにお話していただかなくても、すぐに「はい、そうしましょう」と思ったのだが、あとで聞いたこととして私たちに話す前に京町家作事組の大工さんたちからは猛反対があったらしい。彼らを説得するのに大変な思いをされたということだったのだ(詳しくは「造景No35」 p61参照)。

 そして、工事もあと少しを残す頃、大谷さんはリビングダイニングの一面を京唐紙のパネルにしたいとおっしゃった。予算を抑えないといけないはずなのにどうして?と私と主人には寝耳に水的発想だったが、主人が「大谷さんの好きにしてもらおう」と言い皆で京唐紙を選びに行った。(棟梁は予算面から反対だったようで出来るだけ安価な柄を選んでほしいとこっそり私たちに懇願されていた)。今となっては、この部屋にこの京唐紙がないとどんな寂しい空間になっていただろうと思う。大谷さんのご提案には感謝している。

 いつもいつも穏やかで柔和な笑みをたたえて人の話に耳を傾けられておられた大谷さんではあるが、本当に時々「ここだけは引き下がれない」という時だけは、びっくりするほど強気で頑固で興奮されてお顔が真っ赤で早口になられる「信念の人」だったように思われる。

 まだまだ「信念の人」を続けていただきたかったのに残念でならない。
 合掌。


山田公子(京町家友の会会員)