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京町家再生研究会
京町家通信  vol.101

建築家 大谷孝彦先輩を偲ぶ

 去る6月7日午後、京町家再生研究会の二代目会長を10年間努め、今年4月に鬼籍に入られた大谷孝彦氏を偲ぶ会が催されました。京町家再生研究会が発足した1992年(平成4年)から数えて24年目を迎え、研究会誕生当初から参加された懐かしい顔ぶれや、途中から主旨に賛同して合流された方々、或いは京都の町家保存活動の同志である他会の友人や、この運動を長く見守って頂いている行政の方々が集まり、大谷夫人を囲んで、故人の思い出をそれぞれ心温まるエピソードを交えて語られ、大谷氏の人柄や再生研の歴史に残された足跡を、清々しく思い起こす事が出来ました。特ににこやかにほほえむ笑顔の大谷氏の遺影に、白いカーネーションが献花されると、まだそこから優しい声が聞こえてきそうな気がしました。集まった方々の心の中にも、この数十年の時の流れを超えて、懐かしく優しい面影がすぐ傍らに忍び寄ったような感覚に満たされたことと思います。

 大谷氏は、京大の建築科で3年先輩にあたり、温厚実直で人望のあつい方でしたが、事、建築については、熱い情熱を持った方だと感じていました。特に増田友也教授のゼミから、設計事務所ゲンプランで仕事をされたので、鉄筋コンクリート造の公共建築を数多く手がけられました。私は全ての作品は存じ上げませんが、御本人に案内して戴いたコンクリート打ち放しの小学校を見学して、生徒や先生達に優しい木質系の材料がうまく溶け込むように造られた作品が、先輩の人柄とマッチして、非常に良質な気品を漂わせておりました。

 長年、同設計事務所で仕事を続けられた後年、私達は再生研創立時に再び出会う事になりました。私には、当時京都の歴史的文化都市の実体として存続する町家を保全再生する事が、市民や私達建築の実務に携わる者の、急務の目標であり、建築家としての社会的責務だと思っていました。行政にいらした望月秀祐初代会長は、京都の近代化の為に力を注いでこられた後で、ようやく都市計画的なレベルで町家街区の伝統的建築物の保存再生にかかわる事に意義を感じておられました。再生研創立時に参加された横尾義貫先生、堀内三郎先生、堀江悟郎先生の三名誉教授もそれぞれの立場で再生研顧問として、戦後の日本近代化の先に見放され、解体されてゆく伝統木造建築の復活を望んでおられました。それと同時に、同様の必然性を共感した当時の若手研究者の皆様が、こぞって参加してくれる事により、再生研究会はスタートしました。

 その研究会の初期の活動の中で、大谷さんの業績は、橋弁慶山町会所の再生計画を担当された事です。その顛末は京町家通信創刊号に御本人が事細かに記述されています。偲ぶ会でもそのコピーが参加者に配られ、懐かしく読ませて貰いました。私は当時研究会の世話役をしていたので、橋弁慶山保存会の平井佐太郎、片山文雄両氏や、テナントの和座百衆の黒竹節人氏、そして工事を担当したミラノ工務店の木村俊雄氏や職人達と御一緒に協議に加わりました。特に町会所を5m引き家して、既存不適格建築物のまま、用途を存続させながら、山を収蔵する土蔵と会所の間にギャラリーを別棟増築する計画は、難問山積みで、良く達成出来たと感心しています。関係した皆様の協力体勢が、緊密かつスムーズに働いた事が大きな成果に繋がりました。

 大谷さんは、ゲンプランの若い設計者達と一緒に、京町家の格子や意匠を細かく採寸したり、架構の痕跡調査をして、会所の建築当初の姿を復元し、新しい再生プログラムとの関係を解くのを、興味津々熱心に取り組んでおられました。その中で、京都大学建築史研究室が川上貢先生の御指導で行った、祇園祭山鉾町町会所の研究から学ぶ所が大きく、研究会に高橋康夫先生や、谷直樹先生を招いて、京町家と祭りについて歴史的考察を加えながら実践出来たことが何よりでした。この京都の中心町家街区である山鉾町の文化的景観の認識や、その保存継承については、未だに研究会が追求し続けているテーマでもあります。橋弁慶山町会所の増築部では、延焼の恐れのある部分の防火措置が大切な研究テーマの一つでありました。この当時は、建物の軒裏外壁を防火構造に塗り込めると共に、開口部はスチールサッシに網入りガラスを嵌める事で、建築基準法をクリアする事にしました。しかしながら、当然この解決法は、京町家の美様式に対して目をつぶり基準法に目を向けたダブルスタンダードな解決を示しただけで、本質的にはこのテンコツな重々しい防火戸や、構造用合板を用いた防火手法には、反対意見もありました。その為、京都市主催の「町家再生のための防火手法研究会」に参加し、後年その成果である「水幕防火手法」を橋弁慶山町会所に取付実験をしています。堀内三郎先生が主唱された京町家の裸木造の美様式を、準防火地区内に存続させる為の画期的な研究であったと思われます。この研究も阪神大震災の前後をまたいで、再生研の継続する研究テーマとして受け継いでおります。

 町家の構造については、大谷さんは、伝統的町家の構造美を大いに評価しながら、科学的定量実験に裏打ちされた、構造計算書に依拠する方法の間で悩まれた事と思います。阪神大震災から20年を隔てて、今やっと京都市では、伝統木造構法を基準法の枠組みから外す条例が出来、本来の京町家再生への道が拓かれつつあると考えております。大谷さんも参加された京町家作事組では、日々その実践をしていますが、震災前の大谷さんが町家再生に取り組まれた時点では、二律背反の時代であり、常に研究会内部でも議論が沸騰していました。私は、建築家の良心を持って、この難しい時代の京町家再生に取り組み、京都で活動する諸団体の中で、常に協調の精神を唱え、更に全国町家再生交流会を立ち上げ、活動の幅を拡げて行かれた先輩の勇気に、敬意を表する次第です。

 町家再生の道程は遠く、先輩諸氏の努力を引き継ぐ我々の後に、更に若い世代が道を歩んでくれる事を願っています。大谷先輩、持ち前の優しい心で、いつまでも京町家再生運動の行く末を御見守り下さい。

木下龍一(京町家再生研究会理事)