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京町家作事組
作事組の職人さん・その8

建築板金

(のり京)
 棟梁塾の1期生で、その後作事組の会員となって釜座町町家の板金を担当頂いた「建築板金 のり京」の林田憲和さんから文章をお寄せいただきました。

■ 入門の頃
 表を剥がす
釜座町町家の現場にて(撮影:内田康博)
 サラリーマンを辞めた後に父の下で働く事になったのが、この板金人生のスタート地点でした。父は昔かたぎの板金職人で、言葉で技術を伝えるのが、やはり上手くありませんでした。例えば……、ハンダづけをさせてもらえるようになった頃の事です。コテの焼け色を指して、「この色をよく覚えておけ」と言われました。が、バーナーなんかでコテを炙っていると、炎のあたり方や角度でその色は見え方も変わってきますので、中々コツがつかめません。コレくらいかな、とコテを火から離すと「まだや」と言われ、まだだなとコテを見つめていると、「コテがぼける!」と注意される。
 おそらく、職人と呼ばれる人達の技術というのは、そのほとんどが同様なんだと思うのですが、「やってみて、間違えて、理解する。理解して、やってみて、コツを掴む。そして、自分の仕事を振り返る余裕が出来た頃に、上級者の仕事と自分のそれを比べて、自分の未熟さを思い知る」というようなもので、私も、父から何度もダメ出しをくらいながら少しずつ、仕事を覚えてきました。親子ゆえの微妙な距離感もあったのでしょうけど、常にブスッとしているような父でした。でも、「やってみろ」と、どんな仕事でもさせてくれたので、今の私があるのかな、と思います。私も、「わからない」とか、「出来ない」とか言うのがくやしかったので、いつでも「やってみる」と答えて、「コレでどう?」と、そんな感じでした。

■棟梁塾のこと
 職人としての経験をそれなりに積んだ頃に、新聞記事で偶然見つけたのが魁棟梁塾の活動と棟梁塾塾生募集の記事でした。でも、その記事にあったのは、〈募集職種:大工、左官、瓦、設計〉の文字。板金屋というのは募集されていませんでした。でも、年々増えていく大手メーカー主導型と言いましょうか、職人を“取り付け屋”たらしめてしまう仕事に疑問を持っていたこともありましたし、サイディングにカラーベストという現代の無国籍ハウスよりも、古民家や町家にずっと魅力を感じていたこともありまして、何とか参加させてもらえないかと、応募用紙に思いの丈を書き綴って、面接に臨み、何とか参加させてもらえる運びとなりました。

■建築板金への思い
炉を切る
林田氏による釜座町町家の京あんこう
(撮影:井上成哉)
 棟梁塾や作事組の町家見学で多くの町家を見せていただきましたが、京町家の美しさを形作っているのは、やはり木部と壁と瓦屋根だと思います。座学や実習を通じ、それぞれの職方のこだわりや、思いを知るにつけ、彼らに対する尊敬の念はより深まったように思います。ですから、彼らの仕事が美しいままに年経ていくように雨の通り道を作るのが板金屋であると、そうはっきり自覚するようになったのは棟梁塾に入った後かもしれません。また、板金屋の仕事は目立たないようにあるべきだとの思いが今あるのも、棟梁塾の影響かと思います。
 さて、この度は大下工務店さんの下、釜座町町家の改修工事に携わらせていただきました。私にとっての板金仕事の現場というのは、「水の流れを考える、風雨の時の雨の通り道を想像する」というのと、「建物の現状を観察する、改修後の姿をイメージする」ことと、それから「自分の中の今までの経験と知識と技術を総動員する」ことが、常に頭の中でわぁわぁと騒ぎ立てているような感じでして、それはどんな現場でもそうで、また、私はそれが楽しくて嬉しいんですが、この釜座町会所の改修工事の現場はそれが、他の現場の三倍ぐらいの感じで。やりごたえが、かなり、ありました。
 現在の私のテーマはコーキングをいかに使わないで収めるか、どれだけスッキリと収め他業種の仕事との調和を大切にするか、です。綺麗に見せる、長持ちさせる、という事は当然として、便利なものに頼り切らないというのは大切な事だと思いますし、技術と美意識は一朝一石に身につくものでも、持ちっぱなしに出来るものでもないと思うので、こんな心がけで、これからも頑張って行きたいと思います。

〈林田憲和(作事組理事)〉

※会社メモ:
建築板金 のり京
 所在地 長岡京市長法寺南野1-4
(2011.1.1)