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京町家作事組
町家再生再訪・その14

錦市場 陶工房 器土合爍

(設計:アトリエRYO 施工:アラキ工務店)

 錦市場 陶工房「器土合爍」のご主人山本康雄さんにお話しを伺いました。
 山本さんは10 年前に蕎麦屋「山茂登」を閉店し、陶工房とギャラリーをオープンして、パート・ド・ヴェールやステンドグラス、書画やお花の展示、又落語会や長唄教室などを開き、土蔵のある町家のなかで京文化を守り育ててこられました。このごろは焼きものに加え、お酒の販売を始め、ギャラリーはお休みされています


○錦市場周辺の商いと住環境の移り変わり

 初代山本市蔵が江戸時代の末頃に「山市」という仕出し屋を始め、御所に出入りした記録も残っています。京都の町は海が遠いので、昔から保存食が発達していて、佃煮や干物類や漬物などが豊富にあります。良い時代には、仕出しがよく利用され、山市から分家が三つでき、本家も繁盛していました。あるときには、住友家の庭で園遊会があり2000 個のお弁当の注文があったり、奥の座敷には、竹内栖鳳や今尾景年ら文化人の方々が集まってきていたそうです。
 父は戦地から帰還後、塩干物の店を始めました。昭和の初めに中央市場が出来た頃には錦市場は、卸売りと小売りが共存し、若狭湾から山陰線で蒸気機関車に積まれてきた干物等を仕入れて売っていましたが、やがて流通が変わって卸売りはなくなり、近くにスーパーもできました。昭和40〜 50 年代になると結婚式場が次から次にでき、仕出しの店は減って、ホテルが冠婚葬祭の場に変わりました。しかし京都には多くの日本文化が根付いているので、いまでも仕出し文化はしっかりと残っています。
 私は戦後生まれの次男坊で、この家の一部で蕎麦屋をしていましたが、兄夫婦が早くに亡くなり、父母の介護をしながら蕎麦屋を続けていました。息子が陶芸をするようになり、10年前に蕎麦屋をやめ、陶工房とギャラリーを始めました。本家の塩干物の店は甥が引き継いでいます。
 私はこの家を継ぐとは思っていなくて、中京区に初めて建ったマンションに入りましたが、それからどんどんマンションができ、町家は飲食店に変わり、外国人観光客が多くなり、プチホテルの乱立、そして民泊ブームになり、商いと居住環境も大きく変わってきました。土地の値段が高くなり、敷地全体を有効利用しようと考えるようになって、路地をつくって奥への動線を確保し、表を貸すようになった家も何軒かあります。元々の住人が錦を捨てて賃貸し、商売も変わってきました。300円〜500円の食べ歩きのものが多くなってますね。ゴミの散乱防止、防犯など、錦市場の振興組合などいくつかの団体で食べ歩きの出店を抑える方法を考えたりしています。禁煙や呼び込み禁止などのルールは、すでに出来ています。しかしこのような移り変わりによって、錦市場が、家の中に何の文化も無くなってしまい、表通りの見た目だけを重視した、空洞化した映画村になってしまうのではないかと心配しています。
 表の商いは、次男坊の私は50 年、100 年先の業種はあまりこだわりません。10 年くらいのスパンで考え、変えていくものです。しかし内は守ってきました。さまざまな年中行事、元旦の飾りをして、家を守り、家を継ぐ、その心意気でやってきました。商売替えはするけれども、家を継いで行く。これからもそうしていきたいですね。

○京都人気質

 京都に最初にできた百貨店が大丸で、四条高倉の角に小さくあったのが、だんだん拡張され、いまは東洞院と錦小路にも面しています。庶民的なところもあって「大丸さん」と呼ばれ親しまれています。高島屋はそれよりちょっと高級クラスという感じです。藤井大丸も上手に個性を出して食品売り場も充実しています。阪急百貨店はダメでしたね。もうないでしょう。いま丸井になってますが、京都の人は行かない。老舗を応援したいという気持ちがあるんでしょう。京都で老舗と言うと100年や200年ではないですけどね。
 このあいだ議員さんから手紙が届きました。四条通を歩いて、京都の文化が大変なことになっている、住人の暮らしはどうなっているのかと書かれていました。京都文化が外人向けと日本人向けとごちゃまぜになってきているんです。
 京都には、外からの文化がいっぱい入ってきます。シルクロードの終点なんです。京都人は新しもの好きで、京文化と異文化を織り交ぜて融合させ、流行をつくってきました。
 最近、出会ったフランス人が、パリは京都と似た現象があるんだと言って、家内と意気投合しましてね。ルーブル美術館のモナ・リザの前で中国人が人だかりをつくっていても警備員が注意しない。フランスは第2次大戦でパリを占領され、米英に助けられ解放された歴史があって、外国人を拒否できなくなっている。観光立国でもあり、外国に対して強く出られなくなったと。それでも内に守りたい文化があります。私も台湾人の美術商が訪ねてきたとき、蔵に残っている器などの道具類を肴に色んな話をして、心が通じる気持ちがしました。

○これからの暮らし

 先月、長男に孫が生まれて、じじばかになっています。いずれはここに長男家族が住んで、孫を見ながら暮らすのを楽しみにしています。娘には小学校5 年生の双子の男の子がいて、しょっちゅう友達が遊びに来てにぎやかに暮らしているので、そんなふうになったらいいなと思っています。幸い建物は栂普請のしっかりした町家なので、これからここで家族が暮らせるように、アラキ工務店に網戸をお願いしたり、修復してもらおうと思っています。私はこの家で祖母や叔母や兄弟と一緒の大家族のなかで育って、自分の部屋がなくて、小机を隅っこに持って行って勉強していました。家に友達を呼べないのが悲しかったので、孫が友達と遊べるような家にしたいと思っています。

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こちらもあわせてお読みください。
vol.55 2007年11月1日号 京町家再生の試み
「お蕎麦屋さんからギャラリー+陶工房へ」 -ギャラリー「昌の蔵」、陶工房「器土合爍(きどあいらく)」内田 康博

vol.56 2008年1月1日号 改修事例
「町家を二つに分け、新規事業をおこす」木下龍一


(取材・構成:京町家作事組事務局 森珠恵)