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京町家作事組
町家再生再訪・その4

高林邸

(設計施工:堀工務店)<第2話>


 家を直すといっても、素人には見かけのことしかわからないが、専門の大工さんたちには、何がいちばん大事なのかがよくわかっている。土台、構造材の状態と水平が大問題で、ほとんど骨組みだけのようになった状態で、手間のかかる復元作業が行われた。
 門は残したかったが、予想以上に腐食していたため、クリのなぐり丸太だけを残して使うことにして新調した。
 門にのしかかっていた樹は大木になるムクノキで、庭師がその種の木をあの場所に植えるはずはなく鳥の糞にまじっていたタネが育ったのだろう、ということだった。チェーンソーでぶつ切りにして切り倒すときは、岩がころがってくるようで危険だった。
 小さい家を再生するだけなのだが、いろんな事が次から次へとあった。
 梅雨をやり過ごし真夏に向かう時期に毎日作業が続けられた。京町家作事組が取り組んでいるという看板がおもてに掛けられた。
 屋根や外回りの作業の為に鉄の足場が組まれ、近所では、いったいどれほど費用をかけて贅沢な修繕をしているのか、といぶかる人もいた。
 低予算の私たちは、先ずは原状回復という作事組の基本方針を見守り、特別なことはお願いしなかった。壁の塗り直しはしなかった部分もある。

 お茶とおやつを用意して毎日現場を訪問した。ときどき作業風景を写真に撮らせてもらったりしたが、吉田孝次郎さんに言わせると、君は大工さんが一番嫌がることをやってるんやで!とのことだったが。


構造改修

門の解体撤去

 子供たちが日常過ごす部屋は畳ではなく板張りにし、床の間と仏壇がセットになっていた場所と押し入れも、床の板張りを延長して、少しでも部屋を広く使えるようにした。
 ヒノキの床板はそれほど厚いものではないが、府下美山町のヒノキというのがうれしかった。断熱材はどうしますか、と言われたが、最初の状態のままにしてみようと思いつかわなかった。節は埋めてあるが、もし抜け落ちると床下の土が見えることになる。そして床下には常に風がとおっている。

 畳と建具が入ると、屋内は見違えるような素晴らしい空間となった。建具の数量は全部で40枚ほどになる。不足していた部分を新調するのは費用もかかるので、どこかの古いものを流用できたらと思っていたら、松野さんがタイミングよく吉報を下さった。
 「京都府画学校の創立者・田能村直入の旧宅「画神堂」が保存かなわず解体されることになった、作業がはじまる前に建具など寸法の合うものがあれば持ち帰ってよいと許可を取ってあるのでごらんになってはどうですか?」


改修後_奥の間

改修後_畳と建具の入った居室

 寸法と必要枚数を承知しておられる堀さんと一緒に出かけた。敷地に踏み込んだ時まず目に飛び込んできたのが、我が家の玄関にほしいと思っていた障子と舞良戸だった。それらは乱暴に打ち捨てられたように玄関の外に散乱していた。
 間もなく解体が始まる「画神堂」には、マニアの人も来ていて、襖の取手をはずしたり、バールなどを使って廊下や床の間の一枚板をめくりとったりしていた。取り外して活かすことで一層値打ちが出るものを打ち捨てておくのはもったいない。そうでなければ単純に産業廃棄物としてゴミになるだけなのだ。

 我が家の玄関は、新調した大きな引き戸と土間、「画神堂」伝来の障子と舞良戸で立派に整った。土間は、コンクリートにはしなかった。三和土にしたいとも思ったが、その後、ある人が、玄関が土のままというのは縄文時代の文化が息づいているすごいことだ、と驚いていたこともあって、そのままにしておくことにした。
 台所側の引き戸は、元々あったものを手直しして使用している。このガラガラという音が、いまや私たち家族の耳の底にしみこんでいる。

 町家といえば、誰もが天井の高い暗い空間を思い浮かべるのではないだろうか。
 我が家の場合は、このトオリニワの高さが1階の屋根の分しかないので、それほど高いものではないが、それでも空間の広がりをいつも感じさせてくれる贅沢な場所だ。風も東西に通り抜けることができる。
 以前はこの火袋にベニヤ天井をつけて高さを完全に封じてあった。
 梁というほどのものも何もないに等しい火袋だが、天窓が2か所にあいていて、光の移動を味わうことができる。次女が叡山電車で幼稚園に通っていた転居間もないころ、お弁当のない日はこの天窓の下の台所でお昼を食べることを好んでいた。
 我が家の改修工事が始まってから、無名舎主人で京町家の美をずいぶん以前から紹介してこられた吉田孝次郎氏に連絡を取った。
 町家という世界に目が開かれつつあった私は、2月に訪問した無名舎見学会でじかに聞いた吉田氏の熱弁が忘れられなかった。
 出先から我が家に立ち寄られた吉田氏は、大きなカバンを置くと玄関横に見えていたはしごをいきなり登り切って大屋根に上がられたので驚いた。
 その後、妻と一緒に無名舎を訪問した時にいろいろな話を伺ったが、忘れられない名言があった。それは「町家は四隅が見えるように暮らさなあかん」というものだった。
 帰り際に、こんなもん使わへんか?といって、ふすまの取手を分けてくださった。妙なものを頂戴してしまったなあ、とその時は思っていた。のちに画神堂で譲り受けたふすまはどれもこれも取手がはがされていたので、吉田さんに頂戴したままになっていた取手のことを思い出して建具屋さんに預けた。不思議なことに、穴の寸法も不足していた枚数もぴたりと16枚それらが埋めてくれた。

 最初にこの家を懐中電灯で見て回ったときは、夜であり、窓を開けて外をみるということをしなかった。2度目に来たとき2階の雨戸をあけて外を眺めて驚いた。大文字山が広々と見えていたのだ。町中の絶景と言ってよかった。
 大文字送り火をこの家から見たい、というのが、工事がはじまったころの希望だった。
 ひどい腐食や、手洗いの全面改装など、おそらく想像以上に手のかかった再生工事だったと思うが、堀さんはぴったりと日程の希望をかなえてくださった。

 8月16日。父母と兄弟妹の家族をよんで、まだ転居もしていない、何の家財道具もない出来上がったばかりの家でお披露目をした。
 暗くなってから大文字送り火を2階の座敷から皆で鑑賞した。
 
<記・高林素樹>


2階座敷
ほとんど手をいれずそのままいかされている。娘さんが受験の年はここに机を置いて勉強に励んだ。

新調された門

(取材後記)
 2000年8月に改修工事が完了し、それから5年ほどして近隣にマンションが建ち、いまでは2階座敷の窓からの眺望は失われたが、「私たちにとって大文字の眺めはご褒美でした」と仰った奥様の潔い一言でそのときの感動がよみがえった。娘の瑠璃子さんと葵莉子さんもお手紙をくださった。「障子や襖を開け放つと一つになる、連なっている感じが我が家のいちばんの特徴。部屋が個室に分かれ、クーラーが完備されている友達の家のように、自分の部屋がほしい、プライベートな空間がほしいと思ったこともあるが、町家の暮らしで家族の一体感が育まれてきた。木の匂いや畳の匂いが好きになった。しかし風通しがよく、開放的な分、周辺環境の変化から受ける影響も大きい。せめて今の環境は変わらないでほしい。」と率直な気持ちがつづられていた。
 
 高林さんが空家を購入し、住み継いだ町家で二人の娘を育て、長女の瑠璃子さんは今年就職、次女の葵莉子さんは大学で食文化を学んでいる。そろそろ一つのサイクルが終わろうとしている。町家の生活は子供たちにとってどうだったのか、その答えはこれから15年ほど経って子供たちが何を思うか、それを聴いてみるまではわからない。「お父さんに強いられた暮らし」というかもしれない。でも町家は確実に美意識を刺激してくれる。玄関の明かり障子の桟は「猿頬」といって、正面から見たときに横桟が細く見えるよう加工されている。こういう美しい日本の美意識に日々触れることができて本当に有り難いと思う。町家は傷んでいてもお金と技術があれば直せるが、そこでどんな暮らしをするかは人それぞれ。吉田孝次郎さんが「四隅が見えるように暮らす」といわれたように、ささやかながら町家という箱に沿ってすっきりと清潔感のある暮らしをしたいと思う。部屋が物で溢れているような住み方では、本来の町家暮らしの良さが活かしにくい。子供たちには本物がわかる人間に育ってほしいと高林さんは未来に願を託した。

 京町家ネットがお手伝いをさせていただいた「あけびわ路地」の5軒長屋の再生(京町家通信 第108号を参照されたい)で、北欧デザインの第一人者である島崎先生を入居者としてご紹介してくださったのが関西日本・フィンランド協会事務局次長をつとめる高林さんだ。島崎先生のような発言力のある方が、京都での活動拠点として町家コミュニティで生活し、日本の伝統ある住宅は高齢者にとって住みやすいのかどうかという観点から日本文化を検証されようとしている。町家という箱に沿った暮らしを営み、さらに住み継いでいこうとしている高林さんやそういう方々に支えられている私たちにとってこれは意味深いご縁なのだと思っている。

<取材・京町家作事組事務局 森珠恵>


オダイドコロにて
高林さんご夫妻と長女の瑠璃子さん。いちばんくつろげる場所で

玄関 明かり障子

(2016.11.1)