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京町家作事組

江戸末期の町家の改修工事ー上京区/田中邸


設計:冨家建築設計事務所/施工:アラキ工務店


床の間

 田中邸は千本通を東に下立売に入った一筋目の北西角に位置し、東西にはしる下立売通りはかつて賑やかな商店街であった面影を残している。

 田中邸の位置する出水学区は、平安京内裏の「仁寿殿・紫宸殿・清涼殿・綾綺殿・承明門」などの跡地で、本建物の下立売通りを挟んだ南向かいには「史跡:内裏内郭回廊跡」がある。近世の聚楽第遺構では南外堀跡があり、本建物敷地北は周囲より地盤が下がっている。寛永14年の洛中絵図には「田中丁」とあり、町家は下立売通りの北側にみえ、その北は神明町まで野畑であった。町名は家が建ち始めた頃、周囲が耕地であったことによるという。蛤御門の変では長州藩児玉隊が下立売通りを東進し蛤御門へ向かっているなど、歴史的事件にも登場する。またその後の「鉄砲焼け」当時の瓦版によると田中町はかろうじて出火範囲に含まれておらず、当時からの建築物を残している可能性が高い地域でもある。近代には商店街化、各種小売業などが賑わっていた、田中家敷地東側に接する北へ向かう路も商店街であったと聞き、その名残の電灯の金属部分が通りの上に残っている。

 現時点で建築年代を特定できる資料はないが、旧土地台帳では大正8年12月5日に田中菊之助氏が所有権移転登記されていることがわかる。口伝では当時既に建っていた建物を購入したと伝わっており、建物様式の特徴でも江戸末期から明治初期が建築年代かと思われる。2階の階高が低くムシコ窓も備わっていない、1階の階高も決して高くない。柱寸も細く、すべてが角柱という訳でもなく、解体調査時に柱勝で母屋が付いており、ウダツがあった可能性が高い。2階の梁、胴差のわたし方、大黒小黒と梁の関係など明治期では一般的と思われる構造形態ではないのが特徴である。大正8年当時から昭和20年頃まで田中家は石屋を営み、屋号「石菊」で石碑や鳥居の作をしていた。戦後、昭和26年頃には食料品店を営み始めている。昭和28年に2階の改装をした。昭和52年頃に食料品店も閉店し、昭和末頃には建物の姿は改修前の様子となっている。平成25年に田中喜代野(92歳)氏が亡くなられて、現在に至る。

 本建物は木造ツシ2階建、平入り切妻造、桟瓦葺(一部金属葺)、間口3間、奥行5間、続いて北にトイレ棟が付属する。前面道路の北側に南向きに接する。


ファサード

側面
 外観は軒庇が板金葺に変わっているものを瓦葺に戻し、下がっていた軒庇も締め直した。石屋をしていた大正期の雰囲気を残して、1階部分は玄関側一部にオープンな土間としている。東妻面は焼杉板を張り直した。

 階高が低く抑えられている、ツシ部分の壁面は半間ごとに束がたち真壁漆喰塗りとなっているものを残して改修した。
 1階平面は2列3室型の変則で、南から表土間が間口いっぱい奥行2間あったものを6対4程の割合で表の間と土間とに分けて居室をつくり、通庭(ハシリ)には、FLより一段低い床をつくった。表の間の天井は大和天井と吹抜けの混合とした。また座敷は間取りの改変が行われていたものを本来の姿の八畳間に復元した。座敷には小さいながらも書院窓付の奥行きの浅い床の間が付いていたが、今回広縁側に収納を設けたため、フェイクの書院窓とした。

 ファサードは明治期と大正期の混合の意匠として復元し、内部は建物を取得された大正期に近い間取りに直した。

 今回の改修工事により、今後は喜代野氏の子孫、田中家が集まる場所として整備し、またかつての石屋であった面影も再生し活用していく予定である。

冨家裕久(京町家作事組理事)

2015.5.1