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京町家作事組



 その2
 佐藤嘉一郎(作事組 顧問)

●職方(職人)の技能育成について
 戦前ならば、あまり重視されなかったことで、国内では人が余り、そのはけ口が大陸進出の一因となった程であった。

 職人さん達も素質や技能の上下で自然に淘汰され、技と信用、さらに人柄などが評価されており、現実的には日当や就業日数にも影響するほどであったから、それぞれ自分の持ち場で懸命に働き、多勢の家族を養うのに精一杯であった。

 大工方は堂宮、数寄屋、町家工事と、仕事の特質によって道具や工法が多少違うところもあったが、他の職方はどんな仕事でも一応こなせるのが普通で、左官職についても壁はもとより、煉瓦積み、タイル張り、土蔵工事、炉壇塗り等の他、鏝で作業する仕事一切は教え込まれ、多技能的な面をもち、それが出来なければ一人前として扱ってくれなかった。今は技能修得も短期となり、かつ専門的になって分業化されたが、大規模な工事ならいざ知らず、町家工事の場合は小規模工事が多いので、分業的に専門化した職方では業者の出入り交替が多く、能率的にロスがでて、費用、工期、管理にいろいろと無駄が生ずるし、仕事量も減少すると他の分野との適応がなかなか難しく、これも他産業と同様に能率至上の合理主義政策の置き土産である。

 さらに悪いことに戦後、業界の中核になるべき優秀な青壮年の働き手が戦争や国策の犠牲となって現場を離れ、僅かに生き残った人達も物資不足のなかで満足に仕事もできないまま、復興や食糧確保に日々汗を流す状態であった。

 これでは長年、誇りをもって伝承された職人技ともいうべき自慢の仕事が急速に減少し、わずかに文化財建築や一部恵まれた施主の庇護の下に、伝統の京普請、それも地元京都より被災地や各地の温泉、別荘地等で施工されたものが多く、ここにも京普請に携わる職方が減少する要因ともなっており、このときに至って熟練職方の不足が指摘されている。だが、そこには職方の育成という大きな問題を目前の利益のため、先送りとしてきた業界の身勝手な営業方法の結果とする意見もある。すなわち、いくら良い技を修得した職方でも、注文、仕事がなければ、技の振るいようがなく、手間に平均して作業のできる仕事量が必要で、建築の場合は工房で作って売出したり、飾窓に展観して施主の批評を仰ぐことは不可能で、発注があってはじめて作業・仕事にかかるのであるから、注文者と職方との出会いがなければ、あたら良い技術の名人であっても技の成果は発揮できない。昔は建築にもパトロン的な旦那衆と言われる人があって、自家の建築を楽しみながら、職方も育てて頂いた話も多く、それが今日、名建築として各地に残り、当時の技の高さを伝承してきたのである。

 今は万事消耗品的な時代で、その場限りの取引が済めば「あとは野となれ、山となれ」式の建物で、請負制度の下では手間暇かけた道楽普請は無理な話で、道楽でなくても、せめて木材の寿命だけ長持ちする建物を建てるのが我々職方の意地であり、責任かつ義務と思われる。
 昔、小堀遠州侯が作庭依頼者に工期、費用、さらに施主の意見、この三点を一任されたいと条件を付けたといわれるが、現在の工事では「夢のまた夢」のような話と思われるが、他人に建物のような人の技術、それも複数の多くの人の協力で作り上げるものでは、遠州侯ならずとも、これくらいの条件はできればつけたいもので、それでこそ立派な作品が出来るのではないだろうか。

 しかし、これも無制限に職方の言い分を通すのではなく、始めに施主ありきの話し合いの下で計画をたて、工事着手後は計画通りに進むという、これもやっぱり双方の深い信頼の下でこそ成り立つ話であると思う。

 また建築という大きなプロジェクトは、設計者、棟梁はじめ職方グループの結集と協力があってこそできるもので、その優れた経歴をもち、技を備えたグループを探すのが建築以前の大仕事で、その甲乙が作品の良否に大きく影響するのはいうまでもなく、「ほめられなくても良い。図面通り、検査にパスする工事が出来れば」とは、現在のお役人方の生き方そのものであるが、建物には息が通っているという事を忘れずに、使ってもらって喜んで頂ける建物、住んでもらって輝きのでる建物こそ我々が次代に伝える事ができる唯一の生きた証なのである。したがって、こういった職方、事業主を探し育てる事も、また施主さんの一つの使命であると思うのであるがいかがだろうか。