ご縁は再生でつなぎ続ける──鹿ケ谷の近代数奇屋末川 協(作事組理事)
建物はもともと、お寺の所有で宮中のお付き人が使う施設だったそう、門跡寺院ならの由来があった。バブル期に都心で地上げにあった先生のお父さんが買い取られ、お住まいに直されていた。元の数奇屋の姿に加え、離れや倉庫を含め、千本格子やガラスの障子戸、欄間、床板、落掛け、踊り場の手摺から天井収納の折りたたみ階段まで、元のお住まいの町家から移されたパーツが、それぞれに工夫して嵌め込まれ、ユニークなしつらえになっていた。中京での暮しを取り巻いていた大切な道具が、出来るだけたくさんレスキューされていた。京都の景観にとっての暗黒時代に、町家の再生が声高に言われる前に、遊び心まで含め、そんな改修が試されていたことに驚いた。 お手伝いした設計の内容は、先生のお子さん達の代もきっちり建物が残せること、大切に移された道具も残せること、その前提で水廻り、リビングを使いやすく暖かくすること。家具や収納の什器もしっかりお時間を頂いて(お尻を叩いて頂いて)取り組むチャンスを頂けた。恩師は理科の先生、今は科学センターに通われている。35年ぶりに教わることが多かった。なぜ柿渋の色は濃くなるのか。切り身しか知らない木材の樹皮や葉の見分け方。賀茂の七石の産地と組成。多くの庭木の名前、増やし方。 工事着工は一年前の春、前栽に自生するわさびの葉を教わり、現場でのつまみ食いで二日酔がすこし覚める。そして大屋根の葺替えに上がると如意岳の新緑。お寺の菜の花、梅、椿が次々に満開。手に取るよう。
図らずも新旧のご縁がたくさん交わる現場となった。工事は若手の大工親方が担当、水仕舞いや構造改修には妥協なく取り組んだ。縁先の外壁の収まりなど設計の不備を、そのこだわりで補ってもらった。工事の挨拶回りに行くとお寺の若婿さんが実はお世話になった元瓦職。曰く、春の特別拝観以外は自由に駐車場を使うようにとのこと。キッチンは覚悟を決め、先達の足跡をたどり3年ぶりにオリジナルの製作に取り組んだ。奥様がビルトインの器具選定をてきぱきと指示下さり、金物の選び方など、やはり仲良しの家具職人に助けてもらった。椅子の修理や貼り替えも快く引き受けてくれた。造付カウンターの天板や下駄箱の材料は、先生が朝3時から大工親方達と連れだって材木市に出かけ、ご自分で競り落とされた。栃の板のまあでかいこと、積み下ろしで立て続けに大工が指を挟み病院に走った。先生も奥様も例によって職方に加わりながら土壁の下地編みや柿渋塗りに取り組まれた。障子紙は棟梁塾で世話になる黒谷の若い和紙作家に漉いて頂けた。熟練の畳職は丁寧には吟味しながら座敷の畳表を裏返し、6竿の桐箪笥をベテランの洗い職がオモテの庭で手際よく並べて洗われた。そして祇園祭までに内部の工事完了、先生の同級生、井川(君)さんがとっておきの葦戸を1階座敷に建て合わせされた。 新しいLDKで、先生とご家族が今年の冬を暖かく乗り切られたように。急ぎ大鉈をふるった庭木がこれからも大事に手入れされ形を整えていきますように。 2012.3.1 |