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京町家再生研究会

四世代で住む京町家 ─下京区・長戸邸

磯野英生(成安造形大学教授)

ファサード(写真:磯野英生)
  長戸家は、新町通を七条通から北に上がり数分のところにある。訪問当日はあいにくの雨であった。主人の長戸氏とご母堂が迎えてくれ、お話を伺った。
  改築工事が終了したのがこの5月28日ということで、引っ越し前の家にもまだ荷物が残っている。ひとまず地元に住み慣れたご母堂が4ヶ月ぶりに住み始められ、長戸氏夫妻は以前の住まいにも帰られながら引っ越しをされるようで、受験を控えたお嬢さんはまだ引っ越し前の住まいで生活しておられるようである。
  この町家は、昭和3年(1928年)頃に建てられたもので、77年ほど経過している。購入されたのは祖父の代で、昭和13年頃(67年前)だそうである。お祖父さんは、当時中央郵便局にお勤めであったこともあり、勤め先の近くにと考え、この家を求められた。それ以前は近くの路地奥に住んでおられた。
  長戸氏は、ご両親ともども茨木市に9年ほど住んでおられたことがあった。筆者も小学校から高校まで同市に住んでおり、懐かしく思われた。その後、長戸氏は、結婚され、昭和54年(1979年)に梅小路・七条御前辺りのマンションを購入、26年間住んでこられた。
  お父さんがお亡くなりになり、高齢のお母さんの一人住まいになっていることもあり、母親と住むことを決意され、改築を思い立たれたと聞いた。
  改築にあたっては、自転車で通勤のおりに作事組の町家改築の工事現場を2カ所で見かけていたこともあり、連絡を取ってみたとのことであった。
  改築工事は、京町家再生研究会の大谷理事長が担当者(上野氏)とともに設計し、工事は堀内工務店がおこなった。
  3軒長屋の南端で、角地に建っていることもあり、当家は、南側と東側にすでに増築されており、外壁はモルタル塗に変えられていた。また軸組にも歪みが生じており、床の根太もぐらぐらしそっと歩かなければならないほどであったそうである。まずはそれを補修することが第一であった。すでにおこなわれていた東側と南側増築部は、前者は元に戻し、後者は現状の床面積は確保しつつ、改築をおこなうこととした。
  台所のある南側は床を貼り替え、小屋組も付け替え、外壁は焼杉板張りに替え、周囲との調和を図った。ただ、瓦屋根との取り付きの収まりがなかなか難しかったようで、外でこの箇所を眺めるとその困難さがよくわかる。台所には新しいキッチンセットが置かれ、脇には洗濯機と洗面台のコーナーが造られた。壁には開口部がとられ、天井には天窓が新たに造られた。台所が南側で通りに面しており、とても明るく、快適そうだ。便所にも天窓が設けられている。風呂と便所の位置もいろいろ検討されたそうで、結局庭を半分つぶすことになった。風呂は台所と同様当初予算よりも奮発し、その結果予算がずいぶんオーバーしてしまったと長戸氏は苦笑いされておられた。この風呂には窓が付けられ、明るい。脱衣室が設けられなかったため、カーテンレールでコーナーをつくってそれに当てた。
  2階では、通り側の部屋はお嬢さんの部屋、奥の部屋はご夫婦の部屋になっている。そして、さらに天井裏にはロフトと呼んでいる屋根裏部屋を新たに設けた。お嬢さんはこの部屋が気に入っておられるようで、何も荷物を置かないでとおっしゃっているそうだ。
  お母さんはこの地でずっと生活してこられたせいもあって、工事中も息子さん夫婦のマンション住まいが手持ち無沙汰で困ったと聞いた。病院通いもあったので、1週間に一度はこの地を訪れ、近所の方に粕汁などをご馳走になった。このことを聞き、老後に住み慣れた場所を変わることは多大なストレスを感じるのだろうなと改めて思った次第である。
  奥さんは、通りがやや狭く電線で塞がれているように感じられているようで、空がないとおっしゃられていたそうである。今まで住んでこられたマンションは周囲に敷地があり、ゆったりとした空間があったわけで、それと比較するとそう思われるのはもっともな話である。しかし、この都市の中心部に住むことの魅力をお感じになる日もきっと近いに違いないと思われた。
  この辺りは開発があまりされていない京都らしい風情の残った界隈である。夜ともなるとその暗がりはことさらである。司馬遼太郎は彦根の町の夜に品を感じていたようだが、この土地には世界に誇れる夜の暗がりがある。いつまでもこの風情が残ってほしいものである。

2005.7.1