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京町家情報センター


(2) 流しのヒミツ
 京町家の台所は、入口から奥へ抜ける通り庭と呼ばれる土間にあって、流しの部分は「走りにわ」といわれる。走るとは何が走るのか。おかーちゃんが走るのか、子供が走るのか?お魚くわえたドラ猫が走るのか?
 実は水が走るのだ。
 古来の日本語としての「はしる」には「ほとばしる」のように、水が勢いよく流れているさまを表す意味がある。台所の流しは調理で水を使うところ。調理に当たる英語はcook(クック)だが、調理とcookでは実は中身が随分違う。
 西洋のcookは、(食物に)火を通す、(火にかけて)料理する(prepare by heat)という意味であり、鳥の羽根をむしって火にあぶるだとか、鍋に野菜や牛乳などを入れてソースを作ったりする感じ。
 それに比べて調理というのは、理(すじみち)を調(ととのえる)という感じ。人間に食べられるべくこの世に存在するものを、自然の摂理(すじみち)に沿って整えるのが日本料理。季節の材料を必要最低限、ここぞ、というところだけ手を加えて、素材の力を最大限引き出す。
 イメージとしては魚をさばいて、切るべき場所で切り分けて刺し身にする感じ。だから西洋料理のコックさんは火の前にデンといるが、日本料理の板前さんは、常に流しの前に位置している、という絵が浮かぶ。
 言うまでもなく、水というのは「手水(ちょうず)を使って清める」とか「水を撒(ま)いて清める」とか「水に流す」とか言われるように、非常に浄化力の強いものである。
 一方、日本には古くから「山川草木悉皆(しっかい)仏性」というような言葉もあり、存在するものには皆、魂があるという認識があった。人間に食べられようとしている命あるもの、魂あるものを食料として調えるために、食料になる部分から魂をはずすこと、浄化することが必要になってくる。これにどうしても水という原初的なものが不可欠で、それも「走る水」が必要だった。
 「走りにわ」というのは実は食料になるものの魂の浄化の場であった、というのが私の想像。それに比べて現在の「キッチン」というのは・・・。
(2011.6.12京都新聞掲載)